●歌は、「住吉の小田を刈らす子奴かもなき奴あれど妹がみために私田刈る」である。
●歌をみていこう。
◆住吉 小田苅為子 賤鴨無 奴雖在 妹御為 私田苅
(作者未詳 巻七 一二七五)
≪書き下し≫住吉(すみのえ)の小田(をだ)を刈らす子(こ)奴(やっこ)かもなき奴あれど妹(いも)がみためと私田(わたくしだ)刈る
(訳)住吉の小田を刈っておいでの若い衆、奴はいないのかね。何の何の、奴はいるんだが、いとしい女子(おなご)のおためにと、私田を刈っているのさ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)奴:奴婢
(注)上三句の問に対する下三句は答えになっている。(旋頭歌)
(注)わたくしだ>しでん【私田】:1 私有の田。個人所有の田地。2 律令制で、位田・職田 (しきでん) ・賜田 (しでん) ・口分田 (くぶんでん) ・墾田など、個人に給された田。⇔公田。(「)
(注の注)位田:五位以上の者にその位階に応じて支給した輸租田 (ゆそでん)
(注の注)職田:中央の大納言以上および国司・郡司・大宰府官人などの地方官に官職に応じて支給された田。
(注の注)賜田:戦功や政治的功績があった者あるいは高位高官の者などに別勅によって与えられた田。
(注の注)口分田:大化の改新後、班田収授法により、人民に支給された田。
(注の注)墾田:新しく開墾した田。こんでん。
田に関する歌であるが、万葉時代の農耕生活を歌から追ってみよう。
稲作については、紀女郎の「小山田の苗代水(七七六歌)」、作者未詳「苗代の小水葱(こなぎ)が花」にみられるように、苗代を作って田植えをする方式が普及していたと考えられる。
そのために「佐保川の水を堰(せ)き上げて植ゑし田を(一六三五歌)」のごとく灌漑も行われていたのである。
「石上(いそのかみ)布留(ふる)の早稲田(わさだ)の穂(一七六八歌)」、「娘子(をとめ)らに行き逢ひの早稲(わせ)を刈る(二一一七歌)」のように「早稲」があった。
また、田んぼのロケーションに関しては、大伴家持の「妹が家の門田(かどた)を見むと(一五九六歌)」や「君がため山田の沢に(一八三九歌)」のように「門田」や「山田」が詠われている。
(注)かどた【門田】名詞:門前の田。家近くにある田。
やまだ【山田】名詞:山の中にある田。山間の田。(学研)
山田は、家から遠く離れているため、農繁期には田んぼを動物などから守るための「田廬(たぶせ)」を作って起居したようである。大伴坂上郎女も「しかとあらぬ五百代(いほしろ)小田(をだ)を刈り乱り田廬(たぶせ)に居(を)れば都し思ほゆ(一五九二歌)」と詠っている。
なお、大伴坂上郎女の一五九二歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その81)」で紹介している。初期のブログなので朝食のサンドイッチの写真なども掲載ているのでご容赦下さい。 ➡ こちら81
夜間に鹿から田んぼを守るため「鹿遣(や)り火」を焚いていたことは、「あしひきの山田守(も)る翁(をぢ)が置く鹿火(かひ)の下焦(したこ)がれのみ我(わ)が恋ひ居(お)らく(二六四九歌)」からうかがい知ることができる。
次の歌をみてみよう。
◆荒城田乃 子師田乃稲乎 倉尓擧蔵而 阿奈干稲干稲志 吾戀良久者
(忌部首黒麻呂 巻十六 三八四八)
≪書き下し≫荒城田(あらきだ)の鹿猪田(ししだ)の稲を倉に上(あ)げてあなひねひねし我(あ)が恋ふらくは
(訳)開いたばかりの田の、鹿や猪が荒らす山田でやっと穫(と)った稲、その稲をお倉に納めてやたら干稲(ひね)にしてしまうように、ああ何とまあ。ひねこびてからからにしているんだろう、私の恋は。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)荒城田>新墾田(読み)アラキダ:新しく切り開いて作った田。新小田(あらおだ)。(コトバンク デジタル大辞泉)
(注)あな 感動詞:ああ。あれ。まあ。(学研)
(注)ひねひねし[形シク]:いかにも古びている。盛りを過ぎている。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
上二句で、当時の農耕の厳しさが伝わって来る。
歌も立派な当時の生活様式等の記録媒体となっている。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「goo辞書」