―その795-
●歌は、「住吉の粉浜のしじみ開けもみず隠りてにみや恋ひわたりなむ」である。
●歌碑は、住之江区浜口東 住吉公園汐掛道顕彰碑である。 (映り込みが激しく見づらいですが御容赦下さい)
●歌をみていこう。
◆住吉乃 粉濱之四時美 開藻不見 隠耳哉 戀度南
(作者未詳 巻六 九九七)
≪書き下し≫住吉(すみのえ)の粉浜(こはま)のしじみ開(あ)けも見ず隠(こも)りてのみや恋ひわたりなむ
(訳)住吉の粉浜の蜆(しじみ)が蓋(ふた)を閉じているように、私は、胸の思いもうちあけることもせず、じっと心のうちに籠(こ)めたまま、思いつづけることであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注) 住吉 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の大阪市住吉区を中心とする一帯。海浜の景勝の地で、松の名所として有名。この地に鎮座する住吉神社の祭神は、海上交通の守護神として、また、和歌の神としても信仰される。古くからの港で、海上交通の要地でもあった。 ※参考 元来の地名は「すみのえ」であるが、「住吉」と当てた表記から「すみよし」の読みが生まれた。両者とも用いられるが、平安時代以降は次第に「すみよし」が優勢となる。歌では、「波」「寄る」「松(=「待つ」とかける)」「忘れ草」など、また、「住み良し(=「住吉(すみよし)」にかける)」が詠み込まれる例が多い。
(注)上二句は序。「開(あ)けも見ず隠(こも)りてのみ」を起こす。
題詞は、「春三月幸于難波宮之時歌六首」<春の三月に、難波(なには)の宮に幸(いでま)す時の歌六首>である。
左注は「右一首作者未詳」<右の一首は、作者いまだ詳(つばひ)らかにあらず。>である。
この歌を含む、題詞「春三月幸于難波宮之時歌六首」はすべて、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その793)で紹介している。
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―その796―
●歌は、「住吉の浅沢小野のかきつはた衣に摺り付け着む日知らずも」である。
●歌碑は、住吉区千躰 細江川碑である。
●歌をみていこう。
この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その794-6)」で紹介している。
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◆墨吉之 淺澤小野之 垣津幡 衣尓揩著 将衣日不知毛
(作者未詳 巻七 一三六一)
≪書き下し≫住吉(すみのえ)の浅沢小野(あささはをの)のかきつはた衣(きぬ)に摺(す)り付け着む日知らずも
(訳)住吉の浅沢小野に咲くかきつばた、あのかきつばたの花を。私の衣の摺染めにしてそれを身に付ける日は、いったいいつのことなのやら。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)浅沢小野:住吉大社東南方の低湿地。
(注)かきつはた:年ごろの女の譬え
(注)「着る」は我が妻とする意。
―その797―
●歌は、「霰打つ安良礼松原住吉の弟日娘子と見れど飽かぬかも」である。
●歌碑は、住之江区安立 霰松原公園にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「長皇子御歌」<長皇子(ながのみこ)の御歌>である。
◆霰打 安良礼松原 住吉乃 弟日娘与 見礼常不飽香聞
(長皇子 巻一 六五)
≪書き下し≫霰(あられ)打つ安良礼(あられ)松原(まつばら)住吉(すみのえ)の弟日娘子(おとひをとめ)と見(み)れど飽(あ)かぬかも
(訳)霰のたたきつける安良礼松原、この松原は、住吉の弟日娘子と同じに、見ても見ても、見飽きることがない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)霰打つ:同音の次句の地名「安良礼(住吉付近か)」をほめる枕詞。
(注)と:並立、と共にの意をもつ。
(注)見れど飽かぬかも:現地への賛美である。
旅の歌にあっては、身の安全のために、「望郷」と「現地への賛美」の二つをそれぞれ主題として詠うのである。
この歌の前歌(六四歌)は、志貴皇子の「望郷」の歌になっている。こちらもみてみよう。
題詞は、「慶雲三年丙午幸于難波宮時 志貴皇子御作歌」<慶雲(きやううん)三年)丙午(ひのえうま)に、難波(なには)の宮に幸(いでま)す時 志貴皇子(しきのみこ)の作らす歌>である。
◆葦邊行 鴨之羽我比尓 霜零而 寒暮夕 倭之所念
(志貴皇子 巻一 六四)
≪書き下し≫葦辺(あしへ)行く鴨(かも)の羽交(はがひ)に霜降(しもふ)りて寒き夕(ゆふへ)は大和(やまと)し思ほゆ
(訳)枯葦のほとりを漂い行く羽がいに霜が降って、寒さが身にしみる夕暮れは、とりわけ故郷大和が思われる(同上)
(注)はがひ【羽交ひ】名詞:鳥の左右の翼が重なり合う部分。また、転じて、鳥の翼。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
犬養 孝氏は、その著「万葉の人びと(新潮文庫)」に「この歌のすばらしいのは『芦辺ゆく鴨の羽がひに霜降りて』という言葉です。これは葦辺の所を鴨がすうっと泳いでいる。その羽の上に霜が降っているというのですが、霜が降るなどということは、さわってみなければわからないことですが、実際にさわったら鴨は逃げてしまいますよ。ですから大変現実的な人から見れば、こんなうそがあるもんかと思う。ところが、これこそが文学というものの、真実と言えましょう。人間の心の真実と言ったらいいかもしれません。」「文学でいう写実というのは」「心の写実です。」と述べておられる。
心の写実を詠いあげているから、時空を超えて感動を引き起こすのであろう。
今の世は情報過多でまして「炎上」などを考えると、ついつい他の人の目線を考えてしまい、心の写実っぽいところを良しとしてしまう傾向が強いのであろう。表現と心の真実性との距離が反応と反比例している。
中西 進氏は、その著「万葉の心(毎日新聞社)」の「はじめに」の書き出しに「純粋な詩は美しい」と書かれている。まさに、「つきつめていった『万葉集』の基本は、心の純粋さにある」(同)
万葉集の歌に対しては、時代的、地理的背景をできるだけ踏まえつつ、純粋な気持ちで接していくべきであろう。万葉集からまた大きな課題が与えられたような気がする。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」