●歌は、「玉桙の道に出で立ち行く我れは君が事跡を負ひてし行かむ」である。
●歌をみてみよう。
題詞は、「五日平旦上道 仍國司次官已下諸僚皆共視送 於時射水郡大領安努君廣嶋門前之林中預設餞饌之宴 于此大帳使大伴宿祢家持和内蔵伊美吉縄麻呂捧盞之歌一首」<五日の平旦(へいたん)に道に上(のぼ)る。よりて、国司の次官(すけ)已下の諸僚皆共に視送(みおく)る。時に射水(いみず)の郡(こほり)の大領(だいりやう)安努君広島(あののきみひろしま)が門前の林中に預(あらかじ)め餞饌(せんさん)の宴(うたげ)を設(ま)く。 ここに、大帳使(だいちやうし)大伴宿禰家持、内蔵伊美吉縄麻呂が盞(さかづき)を捧(ささ)ぐる歌に和(こた)ふる一首>である。
(注)へいたん【平旦】:夜明けのころ。特に、寅(とら)の刻。現在の午前4時ごろ。(weblio辞書 デジタル大辞泉) 旅立ちは朝早く行うのが習い。
(注)大領:郡の長官
(注)餞饌(せんさん)の宴:送別の宴
◆玉桙之 道尓出立 徃吾者 公之事跡乎 負而之将去
(大伴家持 巻十九 四二五一)
≪書き下し≫玉桙(たまぼこ)の道に出で立ち行く我れは君が事跡(ことと)を負(お)ひてし行かむ
(訳)たまほこの道に出で立って、いよいよ旅行く私は、あなた方の数々の功績を、しっかと背負って行きましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)たまほこの【玉桙の・玉鉾の】分類枕詞:「道」「里」にかかる。かかる理由未詳。「たまぼこの」とも(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)。
(注)へいたん【平旦】:夜明けのころ。特に、寅(とら)の刻。現在の午前4時ごろ。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
(注)ことと【事跡】:成し遂げた成果。業績。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
題詞にある「五日」とは、天平勝宝三年(751年)八月五日のことである。
四二四八、四二四九歌の題詞に「七月の十七日をもちて、少納言(せうなごん)に遷任(せんにん)す。」とある。七月十七日付で、家持を少納言に任命する辞令が届き、越中国守離任、帰京の準備に取り掛かり、八月五日に越中を離れたのである。
天平十八年(746年)七月に家持は、越中国守として赴任しているので、越中には五年いたことになる。
この五年間について、犬養 孝氏は、その著「万葉の人びと」(新潮文庫)の中で、「大伴家持の越中生活というのは、歌人家持にとってこれほど大事な時はないと思うんです。歌人家持が生まれるのも、越中生活があったからだと思います。それは、まず歌数から見ましても、家持の生涯の歌が約四百八十五首あるのですが、そのうち越中で出来た歌は二百二十首と、半分に近いのです。(中略)当時の越中は、まさに『天ざかる鄙(ひな)』『しな座借る越(こし)』です。そこに五か年間も暮らすのですから、やりきれない思いでしょう。だから望郷の思いが募ってくるわけです。(中略)望郷や妻恋いの思いをまぎらわせるために歌を作る。歌の勉強をしたり、あるいは中国の文学の勉強もしたでしょう。そして歌を作る機会をできるだけ持って、いうならば越中歌壇とでもいえるようなものをつくりあげたと言ってもいい程です。」と書かれている。さらに、国庁の庭に沢山の花を植えたりしてやりきれない気持ちを紛らわし、家持の生涯で花を詠んだ回数は一三五であるが、越中だけで七〇も作っている、と指摘されている。
題詞には、「時に射水(いみず)の郡(こほり)の大領(だいりやう)安努君広島(あののきみひろしま)が門前の林中に預(あらかじ)め餞饌(せんさん)の宴(うたげ)を設(ま)く。」とあるが、この「門前」は「国守館」、「安努君広島家」、あるいは「大領館」などが考えられるが未詳である。「諸僚皆共に視送(みおく)る」とあるので、「国守館」と考えるのが妥当な気がする。
八幡神社は、氷見市加納(かんの)にある。歌碑の横の歌の解説案内碑には、発音が似ていることから「安努(あのの)」を「加納(かんの)」と推定して歌碑を建てたとある。これもそれなりの理屈である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「万葉歌碑めぐりマップ」 (高岡地区広域事務組合)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」