●歌は、「藤波の影なす海の底清み沈く石をも玉とぞ我が見る」である。
●歌をみていこう。
この歌ならびに他の三首ともに、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その256)で紹介している。
➡
◆藤奈美乃 影成海之 底清美 之都久石乎毛 珠等曽吾見流
(大伴家持 巻十九 四一九九)
≪書き下し≫藤波(ふぢなみ)の影なす海の底清(きよ)み沈(しづ)く石をも玉とぞ我が見る
(訳)藤の花房が影を映している海、その水底までが清く澄んでいるので、沈んでいる石も、真珠だと私はみてしまう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)ふぢなみ【藤波・藤浪】名詞:藤の花房の風に揺れるさまを波に見立てていう語。転じて、藤および藤の花。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
題詞は、「十二日遊覧布勢水海船泊於多祜灣望見藤花各述懐作歌四首」<十二日に、布勢水海(ふせのみづうみ)に遊覧するに、多祜(たこ)の湾(うら)に舟泊(ふなどま)りす。藤の花を望み見て、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌四首>である。
(注)多祜(たこ)の湾(うら):布勢の海の東南部
布勢の水海に関しては、「ニッポン旅マガジン(プレスマンユニオン編集部)」の記事「布勢の円山(布施神社)」に触れられているので、引用させていただく。
「『布勢の水海』は、氷見市南部にあった十二町潟の古称で、土砂の堆積と近世以降の干拓により消滅。仏生寺川下流の水路は往時の海の残存。湖光神社、十二町潟水郷公園、十二町潟排水機場などはまさに十二町潟の名残となっています。
江戸時代までは十二町潟という湖があった
氷見市朝日丘にある朝日貝塚から出土する貝殻はすべて海のものばかりなので、縄文海進(縄文時代の温暖化による海面上昇)時には一帯は海で、その後の海退(現在の海岸線より100m~200mも沖に退いていました)で氷見砂丘が発達し、十二町潟(布勢水海)は湖になったと推測できます。
平安時代には現在と同じくらいの海岸線に戻りましたが、広大な汽水湖である十二町潟(布勢水海)が広がっていいました。(中略)
江戸時代に豪農・矢崎嘉十郎が幕府に願い出て新川を掘削、明治2年に完成後、十二町潟は減少し、明治19年まで120haの田圃が生まれています。
昭和21年から国や県により潮止水門や排水機場の建設が進められ、乾田化が進み、現在の景観になったのです。」
布勢の水海は、乎布(おふ)の﨑・垂姫(たるひめ)の﨑・多祜(たこ)の﨑など、景勝の岬(浦・﨑)に恵まれ。藤の花が咲くころに、小舟で岬を巡り、藤の花を愛で、歌にしたのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)」
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「ニッポン旅マガジン」 (プレスマンユニオン編集部)