万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その817,818)―氷見市上泉 泉の社公園、氷見市下田子 田子浦藤波神社―万葉集 巻十八 四〇五一、巻十九 四一九九

―その817―

●歌は、「多祜の﨑木の暗茂にほととぎす来鳴き響めばはだ恋ひめやも」である。

 

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氷見市上泉 泉の社公園万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、氷見市上泉 泉の社公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆多胡乃佐伎 許能久礼之氣尓 保登等藝須 伎奈伎等余米婆 波太古非米夜母

               (大伴家持 巻十八 四〇五一)

 

≪書き下し≫多祜(たこ)の﨑(さき)木(こ)の暗茂(くらしげ)にほととぎす来鳴き響(とよ)めばはだ恋ひめやも

 

(訳)多祜の﨑、この崎の木蔭の茂みの中に、時鳥がやって来て鳴きたててくれたら、こうもひどく恋しがることなどありますまいに。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫

(注)多祜の﨑:乎布の浦の東南。

(注)このくれしげ【木の暗茂】:暗くなるほど木の茂ること。また、その茂み。(goo辞書)

(注)はだ:はなはだしくの意。

 

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歌の部分を拡大

 四〇四六から四〇五一歌の歌群の題詞は、「至水海遊覧之時各述懐作歌」<水海に至りて遊覧する時に、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌>である。

 

四〇五一歌の左注は、「右一首大伴宿祢家持   前件十五首歌者廿五日作之」<右の一首は、大伴宿禰家持   前(さき)の件(くだり)の十五首の歌は、二十五日に作る>である。

(注)前の件の十五首の歌とあるが、四〇四六歌以下六首しかない。脱落があるものと思われる。

 

他の五首もみてみよう。

 

◆可牟佐夫流 多流比女能佐吉 許支米具利 見礼登毛安可受 伊加尓和礼世牟

                  (田辺福麻呂 巻十八 四〇四六)

 

≪書き下し≫神(かむ)さぶる垂姫(たるひめ)の崎(さき)漕(こ)ぎ廻(めぐ)り見れども飽(あ)かずいかに我れせむ

 

(訳)何とも神々しい垂姫の﨑、この崎を漕ぎめぐって、見ても見ても見飽きることがない。ああ、私はどうしたらよいのか。(同上)

(注)垂姫の﨑:布勢の水海の岬。今の富山県氷見市大浦、堀田付近。

 

左注は、「右一首田邊史福麻呂」<右の一首は、田辺史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)>である。

 

 

◆多流比賣野 宇良乎許藝都追 介敷乃日波 多努之久安曽敝 移比都支尓勢牟

               (遊行女婦土師 巻十八 四〇四七)

 

≪書き下し≫垂姫(たるひめ)の浦を漕ぎつつ今日(けふ)の日は楽しく遊べ言ひ継(つ)ぎにせむ

 

(訳)この垂姫の浦を漕ぎめぐって、今日一日は楽しく遊んで下さい。今日の楽しさをのちのちまで言い伝えてまいりましょう。(同上)

 

左注は、「右一首遊行女婦土師」<右の一首は、遊行女婦(うかれめ)土師(はにし)>である。

(注)遊行女婦:官人等の宴席に侍した教養ある女性。

 

 

◆多流比女能 宇良乎許具不祢 可治末尓母 奈良野和藝弊乎 和須礼氐於毛倍也

              (大伴家持 巻十八 四〇四八)

 

≪書き下し≫垂姫の浦を漕ぐ舟梶間(かぢま)にも奈良の我家(わぎへ)を忘れて思へや

 

(訳)垂姫の浦を漕ぐ舟、その舟の櫓(ろ)を一引きするほどのほんのわずかの間にも、奈良の我が屋を忘れたりすることがあろうか。(同上)

(注)かぢま【楫間】名詞:櫓(ろ)や櫂(かい)をこいで、次の一かきをするまでのほんの少しの間。(学研)

 

左注は、「右一首大伴家持 」<右の一首は、大伴家持>である。

(注)通常「宿禰」が記載されているが、ここにはない。伝来途上に脱落したものか。

(注の注)すくね【宿禰】:天武天皇が制定した八色 (やくさ) の姓 (かばね) の第三位。主に連 (むらじ) 姓の神別氏族に与えられた。大伴宿禰の類。(goo辞書)

 

◆於呂可尓曽 和礼波於母比之 乎不乃宇良能 安利蘇野米具利 見礼度安可須介利

              (田辺福麻呂 巻十八 四〇四九)

 

≪書き下し≫おろかにぞ我れは思ひし乎布(をふ)の浦の荒礒(ありそ)の廻(めぐ)り見れど飽(あ)かずけり

 

(訳)私はよい加減に思っておりました。仰せのとおり、乎布の浦の荒磯のあたりは、見ても見ても見飽きることのない所なのでした。(同上)

 

左注は、「右一首田邊史福麻呂」<右の一首は、田辺史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)>である。

 

 

◆米豆良之伎 吉美我伎麻佐婆 奈家等伊比之 夜麻保登等藝須 奈尓加伎奈可奴

               (久米朝臣廣縄 巻十八 四〇五〇)

 

≪書き下し≫めづらしき君が来まさば鳴けと言ひし山ほととぎす何か来鳴かぬ

 

(訳)珍しいお方がおいでになったら鳴け、と言いつけておいたのに、山時鳥よ、どうして今来て鳴かないのか。(同上)

 

左注は、「右一首掾久米朝臣廣縄 」<右お一首は、掾(じよう)久米朝臣広縄(くめのあそみひろつな)>である。

 

四〇三二歌の題詞にあるように、「天平二十年の春の三月の二十三日に、左大臣橘家の使者、造酒司令史田辺史福麻呂」が都から越中を訪れ、大伴家持と好歓の場を持っているのである。

 三月二三日は「大伴宿禰家持が館にして」(四〇三二から四〇三五歌)、同二四日は、「明日に布勢の水海に遊覧せむ(と)・・・おのもおのも作る歌」(四〇三六から四〇四三歌)、同二五日は「水海に往くに、道中」(四〇四四、四〇四五歌)ならびに「水海に至りて遊覧する時」(四〇四六から四〇五一歌)そして同二六日は、「掾久米朝臣廣縄が館」でといった具合であった。

 

 

―その818―

●歌は、「藤波の影なす海の底清み沈く石をも玉とぞ我が見る」である。

 

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田子浦藤波神社万葉歌碑(大伴家持

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歌碑説明案内板

●歌碑は、氷見市下田子 田子浦藤波神社にある。

 

●歌をみていこう。

歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その256)で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

◆藤奈美乃 影成海之 底清美 之都久石乎毛 珠等曽吾見流

              (大伴家持 巻十九 四一九九)

 

≪書き下し≫藤波(ふぢなみ)の影なす海の底清(きよ)み沈(しづ)く石をも玉とぞ我が見る  

 

(訳)藤の花房が影を映している海、その水底までが清く澄んでいるので、沈んでいる石も、真珠だと私はみてしまう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)ふぢなみ【藤波・藤浪】名詞:藤の花房の風に揺れるさまを波に見立てていう語。転じて、藤および藤の花。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

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歌刻面

ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その256)」の中で触れているが、「大伴家持のこの歌碑の歌の氷見のフジについて、『しばしば布勢水海に遊覧した越中国守・大伴家持は、田子の浦周辺の藤の花の美しさを愛し、<藤波の 影成す海の 底清み しずく石をも 珠とぞ吾が見る>(万葉集 第19巻4199)と歌っており、氷見市下田子の田子浦藤波神社の後ろには、その歌が万葉仮名で刻まれた『大伴家持卿歌碑』が建っています。』(「田子浦藤波神社のフジ」きときとひみどっとこむHP 氷見市観光協会氷見市商工観光課)

 そして、「いつか、北陸の大伴家持の足跡をたどってみたいものである。」とも書いている。この気持ちに今回応えることができたのである。

 

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田子浦藤波神社

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社殿

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田子浦藤波神社田子浦扁額

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「goo辞書」

★「田子浦藤波神社のフジ」きときとひみどっとこむHP (氷見市観光協会氷見市商工観光課)