万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その822)―高岡市伏木古国府 勝興寺越中国庁碑―万葉集 巻十八 四一三六

●歌は、「あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつくらく千年寿くとぞ」である。

 

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高岡市伏木古国府 勝興寺越中国庁碑(万葉歌碑 大伴家持

●歌碑は、高岡市伏木古国府 勝興寺越中国庁碑である。

 

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越中国庁碑(この裏に歌が刻されている)

●歌をみてみよう。

 

 題詞は、「天平勝寶二年正月二日於國廳給饗諸郡司等宴歌歌一首」<天平勝寶(てんびやうしようほう)二年の正月の二日に、国庁(こくちょう)にして饗(あへ)を諸(もろもろ)の郡司(ぐんし)等(ら)に給ふ宴の歌一首>である。

(注)天平勝寶二年:750年

(注)国守は天皇に代わって、正月に国司、群詞を饗する習いがある。

 

 律令では、元日に国司は同僚・属官や郡司らをひきつれて庁(都の政庁または国庁)に向かって朝拝することになっており、翌日に、新年を寿ぐ宴が開かれたのである。

 

 

◆安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等里天 可射之都良久波 知等世保久等曽

                (大伴家持 巻十八 四一三六)

 

≪書き下し≫あしひきの山の木末(こぬれ)のほよ取りてかざしつらくは千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ

 

(訳)山の木々の梢(こずえ)に一面生い栄えるほよを取って挿頭(かざし)にしているのは、千年もの長寿を願ってのことであるぞ。「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)ほよ>ほや【寄生】名詞:寄生植物の「やどりぎ」の別名。「ほよ」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌のように、「ほよ」を頭に挿して千年を祈るということから、古代において「ほよ」は永遠の生命力を約束してくれるという信仰が存在していたと考えられる。驚くことに、おのような「ほよ(やどりぎ)」信仰は世界的にも存在していたということである。

 

左注は、「右一首守大伴宿祢家持作」<右の一首は、守大伴宿禰家持作る>である。

 

この歌にある、「千年(ちとせ)」に関して、國學院大學デジタルミュージアムの「万葉神事語事典」に次のように書かれている。

千年(ちとせ)とは、「千年。千年の長命。長い年月。永遠の年。祝意がある。紀には『千年万歳』『千歳』と見え、長い年月または千年の意で使われている。万葉集において、『この二夜千年のごとも』(11-2381)のように、恋歌では千年を以て長い日を喩える。また『奈良の故郷を悲しびて作る歌』(6-1047)では、八百万年、千年の先までお決めになった奈良の都が荒れていく、と奈良の宮が永遠に栄えることを『千年』で表現したのである。山上憶良は千年の命がほしい(5-903)、とも歌う。春日王は『大君は千歳にまさむ』(3-243)と、大君の長寿を歌う。大伴家持は『国庁に饗を諸の郡司等に給ふ宴の歌』(18-4136)で、『千年寿く』と祈り、また『右大臣橘家に宴する歌』(6-1024、1025)では、長門守巨曾部対馬朝臣が、『千歳にもがも』と願うのに対して、橘右大臣は、私を思ってくれるあなたは『千歳五百歳』も長生きしてほしい、と返す。このように、宴で『千年』を用いて天皇や大臣または宴の参加者の長寿あるいは愛する人の長寿を願う祝い歌を歌ったのである。曹咏梅)

 

勝興寺は、本願寺八世蓮如上人が、文明3年(1471年)越中の布教の拠点として、砺波郡蟹谷庄土山(現在の南砺市福光土山)に土山御坊を開いたことに始まる。(中略)その後、戦国時代には、越中一向一揆の旗頭として活躍し、越前朝倉氏、甲斐武田氏をはじめとする戦国大名や、本願寺、京都公家などと関係を深めていき、複雑な政治情勢の中で、二度の移転を経た後、天正12年(1584年)に現在地の高岡市伏木古国府に移り、藩政時代に入ると加賀藩前田家と関係を深めるようになり、越中における浄土真宗触頭として、近代に至るまで繁栄した。(中略)

また、この境内地は、奈良時代越中国庁の所在地であり、国守として万葉の代表的歌人大伴家持が5年間(746〜751年)この地に赴任し、越中の自然と風土を詠んだ、多くの秀歌が万葉集に収載されている。」(雲龍山勝興寺HP「歴史」より抜粋)

 

 

 鼓堂横の万葉歌碑の次は、池の側の「越中国庁跡」碑である。 

本堂前あたりの境内を見わたしてみてもそれらしいものが見当たらない。寺院の配置図等もない。 

寺院の内部の見学は、本堂入口で履物を脱ぎ、書院や大広間を見て元に引き返して下さいと窓口で言われたので、渡り廊下とか部屋の中から庭の池が見え、そこに歌碑があるのだろうと勝手に想像して堂内を散策することにする。

 渡り廊下は完全にクローズ状態で、明かり障子的な物も開けないようにとの注意書きがある。各伽藍の部屋の内部は見ることができたが、閉鎖的で外を見ることはできなかった。 、こちらのお目当ての池には巡り逢えずであった。

 本堂入口に戻り靴を履き、本堂裏手に廻ろうとしたら、本堂横に小さな池があり、そこに「越中国庁跡」の碑があった。その裏面の歌が刻されていたのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉神事語事典」 (國學院大學デジタルミュージアム

★「雲龍山勝興寺HP」

★「万葉歌碑めぐりマップ」 (高岡地区広域圏事務組