万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その847)―高岡市伏木一宮 大伴神社―万葉集 巻十七 三九五四

●歌は、「馬並めていざ打ち行かな渋谿の清き磯廻に寄する波見に」である。

 

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大伴神社万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、高岡市伏木一宮 大伴神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆馬並氐 伊射宇知由可奈 思夫多尓能 伎欲吉伊蘇未尓 与須流奈弥見尓

               (大伴家持 巻十七 三九五四)

 

≪書き下し≫馬並(な)めていざ打ち行かな渋谿(しぶたに)の清き礒廻(いそみ)に寄する波見(み)に

 

(訳)さあ、馬を勢揃いして鞭打ちながらでかけよう。渋谿の清らかな磯べにうち寄せる波を見に。(同上)

(注)渋谿:富山県高岡市太田(雨晴)の海岸。 

 

この歌は、宴にあって、現地を賛美し場をまとめる歌である。

 

三九四三から三九五五歌の歌群の題詞は、「八月七日夜集于守大伴宿祢家持舘宴歌」<八月の七日の夜に、守(かみ)大伴宿禰家持が館(たち)に集(つど)ひて宴(うたげ)する歌>である。

 

この歌群の歌はすべてブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その844)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 国道415号線沿いの歌碑を巡った後、伏木駅前の駐車場に戻り、コンビニで買ったおにぎりなどを食べ、昼食を済ませ、氣多(けた)神社・大伴神社(氣多神社境内社)へと向かう。

 午前中に、「氣多神社口」交差点までは歩いて行って、氣多神社、大伴神社の神社名碑を確認しているので、簡単に行けるものと思っていた。

「万葉歌碑めぐりマップ」では、「氣多神社口」から「越中国分寺跡」を経て「氣多神社・大伴神社」に至り、万葉ラインへと道が書かれている、

 ナビに従って、交差点を左折、しばらく行くと「越中国分寺跡」の説明案内板があったので、ちょっと寄り道する。

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越中国分寺跡」説明案内板

 そこからナビ通りに行くが、「歌碑めぐりマップ」と違う方向に誘導される。携帯ナビでも行き着かない。国分寺跡の処を三度も行ったり来たりである。

 何としてでも行って見たいと思っていたのであるが、時間の都合もありあきらめる。

 苦渋の決断である。

 

 国道415号線をまた、戻り、「伏木国府」交差点から、二上山山頂と途中の旧二上山資料館を目指し、二上山万葉ラインを上る。無駄な動きである。でもしかたがない。

 山道ドライブである。つづら折れの山道を越えてしばらく行くとT字型の三叉路。正面には廃屋が。左右確認をする。と、左折するのであるが、「氣多神社0.9km」との標識が目に飛び込んでくる。

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「氣多神社」案内標識(ストリートビューから写真転用)

 あわててハンドルを右に。行けるところまで行って見よう。普通なら見落してしまうような標識である。(帰宅後ストリートビューで追跡して見ても、よく気が付けたものであると思う標識である、)

 舗装はされているが、道の脇は、草ぼうぼうで、ほとんど車が通った形跡がない。山側は溝、谷側は崖、しかも細い道。慎重にハンドルを握る。

 Uターンできそうなところもない。進むしかない。900mの長いこと。

 ようやく視界が開け、右手に神社らしきものが、左手に畑とその先の空き地が見えて来た。

 間違いない。氣多神社である。大伴神社である。

 大伴家持さんに誘導していただいたようなものである。

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「氣多神社名碑」と参道

 空き地に車を止め、いざ参道へ。「いざ打ち行かな社の歌碑見に」といった思いである。

 

 富山県公式サイト「とやま観光なび」の「越中万葉歌碑~氣多(けた)神社」には、次のように書かれている。

「氣多神社は、718年に僧行基が創建したと伝えられています。また天平年間(757~764年)に越中一ノ宮として能登一ノ宮の気多大社から晋請したとも言われています。

境内には、次の大伴家持の歌碑があります。

『馬並めて いざうち行かな 渋谿の 清き磯廻に 寄する波見に』大伴家持越中に赴任して最初に開いた宴の時に読まれた歌とされています。渋谿の磯とは、現在の雨晴海岸のことです。宴も終わりにさしかかった頃、家持が『みんなで海を見に行こう』と提案している歌です。

伝承によれば、この境内地の一角に越中総社(越中国内の有力諸社の神霊を国府城近くに集め祀った社) が建立されていたと伝えられています。家持は、越中赴任中に何度もこの総社を訪れたのでしょうか。境内には、大伴家持を祀る大伴神社もあり,毎年10月に大伴家持卿顕彰祭が行われます。この地で万葉人大伴家持卿を偲んでみてはいかがでしょうか。」

 

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大伴神社境内

大伴神社は、昭和60年に、地元の有志が、大伴家持を顕彰して、氣多神社境内に創建したそうである。

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大伴家持卿顕彰碑

天満宮には、横たわった牛(臥牛)の像が奉納されているが、これは、「菅原道真が、承和十二年(845年)の乙丑(きのとうし)の年生まれであり、延喜三年大宰府で亡くなった折、「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言により牛車で亡骸を運ぶ途中で車を曳く牛が座り込んで動かなくなり、付近の安楽寺に埋葬したという故事に由来している(北野天満宮HPより要約)」。これにあやかってかどうかわからないが、「いざ打ち行かな」といわんばかりの馬が奉納されている。

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馬の像

また、境内には大伴家持の「三賦の歌」にちなんだ「三賦の石」などもあり越中万葉が凝縮されていた。不思議な空間であった。

 

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越中三賦の石

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「三賦の石」説明碑

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉歌碑めぐりマップ」 (高岡地区広域圏事務組合)

★「富山県公式サイト『とやま観光なび』」

★「高岡市観光ポータルサイト『たかおか道しるべ』」

★「北野天満宮HP」