万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その873)―豊前国府跡公園万葉歌の森(5)―万葉集 巻六 九五九 

●歌は、「行き帰り常に我が見し香椎潟明日ゆ後には見むよしもなし」である。

 

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豊前国府跡公園万葉歌の森(5)万葉歌碑(宇努首男人)

●歌碑は、豊前国府跡公園万葉歌の森(5)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「豊前守宇努首男人歌一首」<豊前守(とよのみちのくちのかみ)宇努首男人(うののおびとをひと)が歌一首>である。

(注)宇努首男人:百済系渡来人の子孫。養老四年(720年)以来豊前守。

 

◆徃還 常尓我見之 香椎滷 従明日後尓波 見縁母奈思

               (宇努首男人 巻六 九五九)

 

≪書き下し≫行く帰り常に我(わ)が見し香椎潟(かしひかた)明日(あす)ゆ後(のち)には見むよしもなし

 

(訳)大宰府への行きにも帰りにも、いつも見馴れた香椎の潟、私にとってもそんなに懐かしい香椎潟でありますが、明日からのちは見るすべもありません。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)明日ゆ後には:遷任することが決まっていたのであろう。

 

 標題は、「冬十一月大宰官人等奉拜香椎廟訖退歸之時馬駐于香椎浦各述作懐歌」<冬の十一月に、大宰(だざい)の官人等(たち)、香椎(かしい)の廟(みや)を拝(をろが)みまつること訖(をは)りて、退(まか)り帰る時に、馬を香椎の浦に駐(とど)めて、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌>である。

 

大伴旅人、小野老の歌もみてみよう。

 

 題詞は、「帥大伴卿歌一首」<帥大伴卿が歌一首」である。

 

◆去来兒等 香椎乃滷尓 白妙之 袖左倍所沾而 朝菜採手六

                (大伴旅人 巻六 九五七) 

 

≪書き下し≫いざ子ども香椎(かしひ)の潟(かた)に白栲(しろたへ)の袖(そで)さへ濡(ぬ)れて朝菜(あさな)摘みてむ

 

(訳)さあ皆の者、この香椎の干潟で、袖の濡れるのも忘れて、朝餉(あさげ)の藻を摘もうではないか。(同上)

(注)いざ子ども:宴席等で目下の者を呼ぶ慣用語。

(注)白妙の、以下の表現は、朝菜を採る海人娘子を見ているからであろう。

 

 

つづいて小野老の歌である。

 

題詞は、「大貳小野老朝臣歌一首」<大弐(だいに)小野老朝臣(をののおゆのあそみ)が歌一首>である。

 

◆時風 應吹成奴 香椎滷 潮干汭尓 玉藻苅而名

               (小野老 巻六 九五八)

 

≪書き下し≫時つ風吹くべくなりぬ香椎潟(かしひがた)潮干(しほひ)の浦に玉藻(たまも)刈りてな

 

(訳)海からの風が吹き出しそうな気配になってきた。香椎潟の潮の引いているこの入江で、今のうちに玉藻を刈ってしまいたい。(同上)

(注)ときつかぜ【時つ風】名詞:①潮が満ちて来るときなど、定まったときに吹く風。

②その季節や時季にふさわしい風。順風。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞。

(注)ときつかぜ【時つ風】分類枕詞:決まったときに吹く風の意から「吹く」と同音を含む地名「吹飯(ふけひ)」にかかる。「ときつかぜ吹飯の浜に」(学研)

 

 この歌群に詠まれている背景や情景について、國學院大學デジタルミュージアムの「万葉神事語事典」に次のように書かれている。よくわかるので長いが引用させていただきます。

 

「香椎 Kashii:地名。福岡県福岡市東区香椎。香椎宮がある。仲哀天皇の宮として、記に『筑紫の訶志比宮』、紀に『橿日宮』。熊曽征討、新羅出兵の根拠地。香椎宮仲哀天皇神功皇后を祭神とし、応神天皇及び住吉大神を配祀する。万葉集では、728(神亀5)年冬11月、大宰の官人等、香椎廟に参拝し、終わって帰るときに馬を香椎の浦に止め、大伴旅人・小野老・宇努男人がそれぞれ胸中を述べて作った歌が記されている(6-957~959)。旅人の歌は、一行に対して、袖の濡れるのも忘れて香椎の干潟で朝菜の海藻を摘もうというもの。それを受けた老の歌は、海からの風が吹きそうになってきたから、今のうちに玉藻を刈ってしまおうというもの。香椎廟参拝を終えた後の晴れやかでくつろいだ心情が窺える。対して男人の歌は、大和へと帰任することに対する名残惜しさを詠んでおり、大宰府への行き帰りにいつも見ていた香椎潟であるけれど、明日からはもう見るすべもないと、香椎潟への惜別の情が伺える。香椎宮編年記の記事によれば、大宰帥国司郡司を率いて香椎廟に参拝することは重要な年中行事であったと思われ、その時期は11月6日であったという。『続日本紀』の737(天平9)年4月乙巳条に、対新羅関係を諸神に報告する記事中に、伊勢神宮大神神社・筑紫の住吉社・八幡社と並んで、この香椎廟が見える。万葉集や『続日本紀』に『廟』と見えることから、奈良時代には『香椎廟』が公称であったと見られ、通常の神社とは性格が異なるもののようである。記紀にみる仲哀天皇の宮がその廟所となり、仲哀天皇神功皇后の霊を祀った所であったためであると見られる。737年の記事は新羅との外交問題に関したものであるところからすれば、神功皇后新羅遠征伝承に基づいての参拝であったと思われる。『仙覚註釈』に引かれた風土記逸文には、筑紫の国に到れば先ず哿襲宮(香椎宮)に参拝することを常とする、と記している。 谷口雅博」

 

 「香椎廟」参拝の公式行事を終え、香椎潟で海人娘子たちの藻を採る光景をみて、我々も採ろうと発する旅人、老はそれに応じ、時津風が吹くまでに早く採りましょうと言い、遷任が決まっている男人が、そんなにあせらずにもっとゆっくり、とそれぞれの思いを述べあっている掛け合いが見事な歌群である。

 このような連鎖はいつの時代もうけるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉神事語事典」 (國學院大學デジタルミュージアム