●歌は、「いちしろくしぐれの雨は降らなくに大城の山は色づきにけり」である。
●歌碑は、太宰府市吉松 太宰府歴史スポーツ公園(3)にある。
●歌をみてみよう。
◆灼然 四具礼乃雨者 零勿國 大城山者 色付尓家里 <謂大城山者 在筑前國御笠郡之大野山頂 号曰大城者也>
(作者未詳 巻十 二一九七)
≪書き下し≫いちしろくしぐれの雨は降らなくに大城(おほき)の山は色づきにけり <「大城」といふは筑前の国の御笠の郡の大野山の頂にあり、号(なづ)けて「大城」といふ>
(訳)それほど激しく時雨(しぐれ)の雨が降ったわけでもないのに、大城の山は早くも色づいてきた。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)いちしろし【著し】形容詞:「いちしるし」に同じ。 ※上代語
(注)いちしるし【著し】形容詞:明白だ。はっきりしている。 ⇒参考 古くは「いちしろし」。中世以降、シク活用となり、「いちじるし」と濁って用いられる。「いち」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)大城の山:大宰府背後の大野山。
(注)御笠:大宰府周辺の旧郡名
山と渓谷社HPに「大城山」に関して「太宰府の北にある大野城のある丘陵は『四王寺山』と呼ばれ、宇美町、大野城市、太宰府市にまたがる県民の森として整備されている。大城山は四王寺山のピークのひとつで最高峰。四王寺山一帯は古代山城跡となっている。」お書かれている。
大宰府メモリアルパークからの眺望案内板の右端近くの雲の絵の下辺に、「四王寺山」と「大野城跡」が見られる。
大城の山を思って読んだ大伴坂上郎女の歌があるのでみてみよう。
神亀五年(728年)大宰帥旅人の妻、大伴郎女が、九州で亡くなったので、大宰府に来ていたが、天平二年(730年)十月、旅人が大納言になるに伴い、坂上郎女は十一月に旅人より一足早く帰京している。(旅人は十二月に上京。)
題詞は、「大伴坂上郎女思筑紫大城山歌一首」<大伴坂上郎女、筑紫(つくし)の大城(おほき)の山を思ふ歌一首>である。
◆今毛可聞 大城乃山尓 霍公鳥 鳴令響良部 吾無礼杼毛
(大伴坂上郎女 巻八 一四七四)
≪書き下し≫今もかも大城(おほき)の山にほととぎす鳴き響(とよ)むらむ我れなけれども
(訳)今頃はちょうど、大城の山で時鳥が鳴き立てていることであろう。私はもうそこにいないけれども。(同上)
脱線するが、大伴家持を取り巻く大伴家の人たちを簡単にみておこう。
旅人の妻、大伴郎女は、家持、弟の書持そして妹らの実母ではないが、旅人の大宰帥任官に伴い九州に同行したが、病のために亡くなったのである。家持は奈良の旅人の宅で少年期を義母大伴郎女の養育をうけて育っているのである。
家持は、祖父安麻呂、父旅人、がともに大納言の座に就いた名家に育っている。
歌人家持を生み出した背景には、叔母の大伴坂上郎女の後ろ盾があったのは言うまでもない。家持の正妻は、坂上郎女の娘の坂上大嬢である。
山上憶良も筑前守として、いわば大宰帥旅人の部下として交流があったので、家持も大宰府で憶良と面識があったであろうと思われる。
田辺福麻呂も家持が越中守の時に橘諸兄の使いとして家持に逢っている。この件は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その843)」で紹介している。
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万葉集を読み解くには、当然のことながら大伴家持の人間関係を見ながら歴史の時間軸を追っていくことがいかに大事であるか、あらためて気づかされたのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「大城山」 (山と渓谷社HP)