●歌は、「橘の花散る里のほととぎす片恋しつつ鳴く日しぞ多き」である。
●歌碑は、太宰府市吉松 太宰府歴史スポーツ公園(7)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「大宰帥大伴卿和歌一首」<大宰帥大伴卿が和(こた)ふる歌一首>である。
◆橘之 花散里乃 霍公鳥 片戀為乍 鳴日四曽多毛
(大伴旅人 巻八 一四七三)
≪書き下し≫橘の花散(ぢ)る里のほととぎす片恋(かたこひ)しつつ鳴く日しぞ多き
(訳)橘の花がしきりに散る里の時鳥、この時鳥は、散った花に独り恋い焦がれながら、鳴く日が多いことです。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)片恋しつつ:亡妻への思慕をこめる
一四七三歌は、石上堅魚が詠った歌に和したものである。こちらもみてみよう。
一四七三、一四七四歌ともに、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その211)」で紹介している。
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◆霍公鳥 来鳴令響 宇乃花能 共也来之登 問麻思物乎
(石上堅魚 巻八 一四七二)
≪書き下し≫ほととぎす来鳴き響(とよ)もす卯(う)の花の伴(とも)にや来(こ)しと問はましものを
(訳)時鳥が来てしきりに鳴き立てている。お前は卯の花の連れ合いとしてやって来たのかと、尋ねたいものだが。
(注)卯の花の伴にや来しと:うつぎの花の連れ合いとして来たのかと。時鳥を、妻を亡くした大伴旅人に見立てている。
題詞は、「式部大輔石上堅魚朝臣歌一首」<式部大輔(しきぶのだいぶ)石上堅魚(いそのかみのかつを)朝臣(あそみ)が歌一首>である。
左注は、「右神龜五年戊辰大宰帥大伴卿之妻大伴郎女遇病長逝焉 于時 勅使式部大輔石上朝臣堅魚遣大宰府弔喪幷賜物也 其事既畢驛使及府諸卿大夫等共登記夷城而望遊之日作此歌」<右は、神亀(じんき)五年戊辰(つちのえたつ)大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)が妻大伴郎女(おほとものいらつめ)、病に遇(あ)ひて長逝(ちやうせい)す。その時に、勅使式部大輔石上朝臣堅魚を大宰府に遣(つか)はして、喪(も)を弔(とぶら)ひ幷(あは)せて物を賜ふ。その事すでに畢(をは)りて、駅使(はゆまづかひ)と府の諸卿大夫等(まへつきみたち)と、ともに記夷(き)の城(き)に登りて望遊(ぼういう)する日に、すなはちこの歌を作る>とある。
(注)神亀五年:728年
(注)勅使:三位以上の人が父母・妻などを喪った時には、勅使が派遣される。大伴旅人は正三位。
(注)はゆまづかひ【駅使ひ】名詞:「はゆま」を使って旅行する公用の使者。「はゆまつかひ」とも。(学研)
(注の注)はゆま【駅・駅馬】:奈良時代、旅行者のために街道の駅に備えてあった馬。 公用の場合は駅鈴をつけた。 伝馬(てんま)。 「はやうま(早馬)」の変化した語。(学研)
(注)きいじょう(基肄城):今の佐賀県三養基みやき郡基山きやま町から福岡県筑紫野市にかけてあった朝鮮式山城。665年、大宰府の防備のために、北側の大野城とともに造られた。記夷城。椽城きじよう。(コトバンク 大辞林 第三版)
大伴旅人の亡き妻への思いを詠った歌については、前稿ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その895)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」