●歌は、「いにしへの七の賢しき人たちも欲りせしものは酒にしあるらし」である。
●歌碑は、太宰府市吉松 太宰府歴史スポーツ公園(9)にある。
●歌をみてみよう。
◆古之 七賢 人等毛 欲為物者 酒西有良師
(大伴旅人 巻三 三四〇)
≪書き下し≫いにしえの七(なな)の賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせしものは酒にしあるらし
(訳)いにしえの竹林の七賢人たちさえも、欲しくて欲しくてならなかったものはこの酒であったらしい。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)七賢>竹林の七賢:中国の後漢(ごかん)末から魏(ぎ)を経て西晋(せいしん)に至る間(2世紀末から4世紀初め)に、文学を愛し、酒や囲碁や琴(こと)を好み、世を白眼視して竹林の下に集まり、清談(せいだん)を楽しんだ、阮籍(げんせき)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、阮咸(げんかん)(以上河南省)、嵆康(けいこう)(安徽(あんき)省)、劉伶(りゅうれい)(江蘇(こうそ)省)、王戎(おうじゅう)(山東省)の7人の知識人たちに与えられた総称。彼らは、魏晋の政権交替期の権謀術数の政治や社会と、形式に堕した儒教の礼教を批判して、偽善的な世間の方則(きまり)の外に身を置いて、老荘の思想を好んだ方外の士である。彼らの常軌を逸したような発言や奇抜な行動は、劉義慶(ぎけい)の『世説新語』に記されている。そこには、たとえば、阮籍は、母の葬式の日に豚を蒸して酒を飲んでいたが、別れに臨んでは号泣一声、血を吐いた、とある。彼らの態度は、人間の純粋な心情をたいせつにすべきことを訴える一つの抵抗の姿勢であり、まったくの世捨て人ではなかった。すなわち、嵆康は素志を貫いて為政者に殺され、山濤は出仕して能吏の評判が高かった。
[宮澤正順](コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>)
三三八から三五〇歌の歌群の題詞は、「大宰帥大伴卿讃酒歌十三首」<大宰帥(だざいのそち)大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三首>である。
「讃酒歌」にも見られるように、漢語を歌ことばに砕いた表現が多々取り入れられている。また、このような連作方式もこれまでの単調な類型化した中央の歌と比し斬新で大陸文学の洗礼を受けた旅人や憶良によって、筑紫歌壇が形成されていったのである。
大伴家持が年少の頃、大宰府でかかる流れを目の当たりにしていたのである。このことが後に彼の作風に大きな影響を与えたのは否定できない。
十三首を2回にわけてみてみよう。本稿では、三三八歌から三四四歌までを紹介し、次稿で三四五歌から三五〇歌を紹介する。
◆驗無 物乎不念者 一坏乃 濁酒乎 可飲有良師
(大伴旅人 巻三 三三八)
≪書き下し≫験(しるし)なきものを思はずは一圷(ひとつき)の濁(にご)れる酒を飲むべくあるらし
(訳)この人生、甲斐なきものにくよくよとらわれるよりは、一杯の濁り酒でも飲む方がずっとましであるらしい。(同上)
(注)しるし【験】名詞:効果。かい。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)濁れる酒:「濁酒」の翻読語。どぶろく。
◆酒名乎 聖跡負師 古昔 大聖之 言乃宜左
(大伴旅人 巻三 三三九)
≪書き下し≫酒の名を聖(ひじり)と負(おほ)せしいにしへの大き聖(ひじり)の言(こと)の宣(よろ)しさ
(訳)酒の名を聖(ひじり)と名付けたいにしえの大聖人の言葉、その言葉の何と結構なことよ。(同上)
(注)魏志徐邈伝(ぎしじょばくでん)に、太祖(魏の曹操)の禁酒令に対し、酔客が清酒を聖人、濁酒を賢人と呼んだとある。
(注)大き聖(ひじり)の言(こと)の宣(よろ)しさ:徐邈らのことをおどけていったもの。
◆古之 七賢 人等毛 欲為物者 酒西有良師
(大伴旅人 巻三 三四〇)
※上述
◆賢跡 物言従者 酒飲而 酔哭為師 益有良之
(大伴旅人 巻三 三四一)
≪書き下し≫賢(さか)しみと物言ふよりは酒飲みて酔(ゑ)ひ泣(な)きするしまさりたるらし
(訳)分別ありげに小賢(こざか)しい口をきくよりは、酒を飲んで酔い泣きをするほうが、ずっとまさっているらしい。(同上)
(注)さかし【賢し】形容詞:①賢明だ。賢い。②しっかりしている。判断力がある。気丈である。③気が利いている。巧みだ。④利口ぶっている。生意気だ。こざかしい。(学研)
(注)-み 接尾語:①〔形容詞の語幹、および助動詞「べし」「ましじ」の語幹相当の部分に付いて〕(…が)…なので。(…が)…だから。▽原因・理由を表す。多く、上に「名詞+を」を伴うが、「を」がない場合もある。②〔形容詞の語幹に付いて〕…と(思う)。▽下に動詞「思ふ」「す」を続けて、その内容を表す。③〔形容詞の語幹に付いて〕その状態を表す名詞を作る。④〔動詞および助動詞「ず」の連用形に付いて〕…たり…たり。▽「…み…み」の形で、その動作が交互に繰り返される意を表す。(学研)
◆将言為便 将為便不知 極 貴物者 酒西有良之
(大伴旅人 巻三 三四二)
≪書き下し≫言はむすべ為(せ)むすべ知らず極(きは)まりて貴(たふと)きものは酒にしあるらし
(訳)なんとも言いようも、しようもないほどに、この上もなく貴い物は酒であるらしい。(同上)
(注)極(きは)まりて貴(たふと)き:漢語「極貴」の翻読語。
◆中々尓 人跡不有者 酒壷二 成而師鴨 酒二染甞
(大伴旅人 巻三 三四三)
≪書き下し≫なかなかに人とあらずは酒壺(さかつぼ)になりにてしかも酒に染(し)みなむ
(訳)なまじっか分別くさい人間として生きてなんかいずに、いっそ酒壺になってしまいたい。そうしたらいつも酒浸りになっていられよう。(同上)
(注)なかなかに 副詞:なまじ。なまじっか。中途半端に。(学研)
(注)てしかも 終助詞:《接続》活用語の連用形に付く。〔詠嘆をこめた自己の願望〕…(し)たいものだなあ。 ※上代語。願望の終助詞「てしか」に詠嘆の終助詞「も」が付いて一語化したもの。(学研)
(注)呉の鄭泉(ていせん)は、死後自分の屍が土と化して酒壷に作られるように、窯の側に埋めよと言い残したという。この故事を踏まえているか。
◆痛醜 賢良乎為跡 酒不飲 人乎熟見者 猿二鴨似
(大伴旅人 巻三 三四四)
≪書き下し≫あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
(訳)ああみっともない。分別くさいことばかりして酒を飲まない人の顔をつくづくと見たら、小賢しい猿に似ているのではなかろうか。(同上)
大伴旅人は、大納言であった大伴安麻呂を父に持つ生粋の貴族である。その旅人が大宰帥として九州に赴任したのは、神亀四年(727年)ごろといわれる。六十歳を越えている。学問にも精通しており、中国の文学、老荘思想、神仙思想にも詳しかったといわれている。
当時の「天離る鄙(あまざかるひな)」九州大宰府に赴任するということは、貴族であり、教養もあり、いわば都会人であったが故に、また年齢を考えれば、やりきれない心境であったものと思われる。都での藤原氏の台頭は、皇親政権になじむ大伴氏族の長である旅人の気持ちはいかばかりであったろう。
さらに不幸なことに、旅人が九州に着任して間もなく、愛妻を亡くしてしまうのである。
亡き妻を偲ぶ数々の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その895)」で紹介している。
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「大宰帥大伴卿讃酒歌十三首」について、犬養 孝氏は、その著「万葉の人びと」(新潮文庫)のなかで、三三八歌の「験なき物を思はずは」というのは、その逆で、亡き妻、大伴氏族の没落等を思うとやりきれない思いでいっぱいだから、かいのない物思いをしないで、濁酒を飲む方がいいと、中国の文学的教養を土台にして、「捨て鉢、つまり自嘲的な気持ち」を踏まえながら、この世の苦しみから抜け出そうとする心が見える、と書いておられる。
大伴家持が、「しなざかる越」に越中守として赴任し、歴史の流れに翻弄されながら歌で大伴氏族を鼓舞しようとしたのであるが、親子二代、太宰府、越中といわば左遷され、時代に翻弄されている。こういった観点から万葉集を深堀していく必要性を痛感させられるのである。
近づけば近づくほどに遠ざかる万葉集である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「万葉集の詩性(ポエジー) 令和時代の心を読む」 中西 進 著 (角川新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」