―太宰府番外編その4-
本稿では、「梅花の宴」の下席の方の人たちの歌八三〇から八三七歌の方からみてみよう。
歌の紹介のあとに当時の役人の働き方も触れている。
◆萬世尓 得之波岐布得母 烏梅能波奈 多由流己等奈久 佐吉和多留倍子 [筑前介佐氏子首]
(佐氏子首 巻八 八三〇)
≪書き下し≫万代(よろづよ)に年は来経(きふ)とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし [筑前介(つくしのみちのくちのすけ)佐氏子首(さじのこおびと)]
(訳)万代までののちまでも春の往来(ゆきき)があろうとも、この園の梅の花は絶えることなく咲き続けるであろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)きふ【来経】自動詞:年月がやって来ては去って行く。時が経過する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
■佐氏子首:佐伯直子首か。万葉集にはこの一首のみ収録されている。
◆波流奈例婆 宇倍母佐枳多流 烏梅能波奈 岐美乎於母布得 用伊母祢奈久尓 [壹岐守板氏安麻呂]
(板氏安麻呂 巻八 八三一)
≪書き下し≫春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜寐(よい)も寝(ね)なくに [壹岐守(いきのかみ)板氏安麻呂(はんじのやすまろ)]
(訳)春なればこそ、なるほどこんなにも美しく咲いている梅の花よ、あなたを賞(め)で思うあまりに夜も寝られない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)うべも 【宜も】:分類連語 まことにもっともなことに。ほんとうに。なるほど。道理で。(学研)
■板氏安麻呂:伝未詳。万葉集にはこの一首のみ収録されている。
◆烏梅能波奈 乎利弖加射世留 母呂比得波 家布能阿比太波 多努斯久阿流倍斯 [神司荒氏稲布]
(荒氏稲布 巻八 八三二)
≪書き下し≫梅の花手折りてかざせる諸人(もろひと)は今日(けふ)の間(あひだ)は楽しくあるべし [神司(かみづかさ)荒氏稲布(くわうじのいなしき)]
(訳)梅の花を手折って挿頭(かざし)にしている人びとは、誰もかれも、今日一日は楽しみが尽きないはずだ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)神司:神に仕える人。神官(しんかん)。かむづかさ、かみづかさ、とも。(weblio辞書 三省堂大辞林より)
■荒氏稲布:伝未詳 万葉集にはこの一首のみ収録されている。
◆得志能波尓 波流能伎多良婆 可久斯己曽 烏梅乎加射之弖 多努志久能麻米 [大令史野氏宿奈麻呂]
(野氏宿奈麻呂 巻八 八三三)
≪書き下し≫年のはに春の来(きた)らばかしこくそ梅をかざして楽しく飲まめ [大令史(だいりゃくし)野氏宿奈麻呂(やじのすくなまろ)]
(訳)年々春が巡って来たならば、このように梅をかざして思いっきり楽しく飲もうではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)としのは 【年の端】分類連語 毎年。(学研)
(注)大令史:大宰府判文抄写官。判事の書記。
■野氏宿奈麻呂:伝未詳 万葉集にはこの一首のみ収録されている。
◆烏梅能波奈 伊麻佐加利奈利 毛ゝ等利能 己恵能古保志枳 波流岐多流良斯 [小令史田氏肥人]
(田氏肥人 巻八 八三四)
≪書き下し≫梅の花今盛りなり百鳥(ももとり)の声の恋(こほ)しき春来(きた)るらし [小令史(せうりゃうし)田氏肥人(でんじのこまひと)]
(訳)梅の花が今がまっ盛りだ。鳥という鳥のさえずりに心おどる春が、今まさにやってきたらしい。(同上)
(注)百鳥(ももとり):多くの鳥。種々の鳥。(コトバンク デジタル大辞泉)
■田氏肥人:伝未詳 万葉集にはこの一首のみ収録されている。
◆波流佐良婆 阿波武等母比之 烏梅能波奈 家布能阿素▼尓 阿比美都流可母 [藥師高氏義通]
▼は「田+比」=び
(高氏義通 巻八 八三五)
≪書き下し≫春さらば逢はむと思(も)ひし梅の花今日(けふ)の遊びに相(あひ)見(み)つるかも [藥師(くすりし)高氏義通(かうじのよしみち)]
(訳)春になったらぜひ逢いたいと思っていた梅の花だが、この花に今日のこの宴で、皆してめぐり逢うことができた。(同上)
(注)薬師:大宰府医師
■高氏義通:伝未詳 万葉集にはこの一首のみ収録されている
◆烏梅能波奈 多乎利加射志弖 阿蘇倍等母 阿岐太良奴比波 家布尓志阿利家利 [陰陽師礒氏法麻呂]
(礒氏法麻呂 巻八 八三六)
≪書き下し≫梅の花手折(たを)りかざして遊べども飽(あ)き足(だ)らぬ日は今日(けふ)にしありけり [陰陽師(おんやうし)礒氏法麻呂(きじののりまろ)]
(訳)梅の花をてんでに手折り髪にかざしていくら遊んでも、なお満ち足りることがない日とは、今日のこの日であったのだ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
■礒氏法麻呂:伝未詳 万葉集にはこの一首のみ収録されている
◆波流能努尓 奈久夜汙隅比須 奈都氣牟得 和何弊能曽能尓 汙米何波奈佐久 [笇師志氏大道]
(志氏大道 巻八 八三七)
≪書き下し≫春の野に鳴くやうぐいすなつけむと我が家(へ)の園に梅が花咲く [算師(さんし)志氏大道(しじのおほみち)]
(訳)春の野で鳴く鴬、その鴬を手なずけようとして、この我らの園に梅の花が咲いている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)算師:物数計算官。笇(さん)=算:数を数える。
■志氏大道:志紀大道と同じか。万葉集にはこの一首のみ収録されている
梅花の歌にはいろいろな階層の役人が登場するが、万葉時代の 役人たちはどのような働き方をしていたのかが気になる。
奈良県橿原市HPの「かしはら探訪ナビ」に「役人たちの仕事ぶり」が書かれていた。興味深い内容であるので、長文であるが引用させていただきます。
「大極殿(だいごくでん)や朝堂院(ちょうどういん)のまわりには、役所が建ち並び、数千人の人々が働いていました。その中には、政治の実権(じっけん)を握るごく少数の貴族、実務を担当する大勢の下級役人、全国から集められた兵士、宮殿の修繕(しゅうぜん)工事などをおこなう人々などがいました。
役所での勤務時間は、普通日の出から4時間程度で、休日は月に5日程度と、現代と比べて短めでした。役所は床張(ゆかばり)の建物が多かったようで、座って仕事をしたようです。机の上には木簡(もっかん)や紙の書類や帳簿類、筆記用具の筆と硯(すずり)や水滴(すいてき)、木簡に書いた文字を消すための小刀などが並んでいました。
発掘調査では、落書きされた遺物が出土し、当時の役人の仕事ぶりの一端をうかがえます。しかし、仕事は真面目にしなければならないものです。年に一度の勤務評定(きんむひょうてい)と、4年か6年ごとの総合評定を受けて、成績次第で昇進することも可能でした。しかし、当時は階級社会、貴族の子は短期間で昇進するのに、下級役人は長い間かかって少ししか昇進しませんでした。
気になる給料ですが、当時は品物で支給されていましたが、これをお金に換算して年収を比較すると、右大臣は30万9070文、最も地位の低い役人は310文。右大臣と地位の低い役人では、年収に1000倍もの格差がありました。なお当時、和同開珎(わどうかいちん)の銅銭1文で米1升を買えたようです。皆さん、一度、当時の年収を計算してみてはどうですか?」と書かれている。
勤務時間も書かれている。四季ごとに異なっていたようである。
春(3月末から4月初め頃):AM.6時50分~AM.10時30分
夏(6月末から7月初め頃):AM.5時30分~AM.9時30分
秋(9月末から10月初め頃):AM.6時50分~AM.10時30分
冬(12月末から1月初め頃):AM.7時50分~AM.11時20分
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「コトバンク デジタル版日本人名大辞典+Plus」
★「かしはら探訪ナビ」 (橿原市HP)
★「天空の楽園 太宰府メモリアルパーク『万葉歌碑めぐり』太宰府悠久の歌碑・句碑」 (太宰府メモリアルパーク)