万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その901)―万葉集における大宰府の位置づけの深耕の必要性を痛感

●歌は、「梅の花散らくはいづくしかすがにこの城の山に雪は降りつつ」である。

 

f:id:tom101010:20210201150617j:plain

太宰府メモリアルパーク(2)万葉歌碑(伴氏百代)

●歌碑は、太宰府市大佐野 太宰府メモリアルパーク(2)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その890)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

◆烏梅能波奈 知良久波伊豆久 志可須我尓 許能紀能夜麻尓 由企波布理都ゝ  大監伴氏百代

(伴氏百代 巻五 八二三)

 

≪書き下し≫梅の花散らくはいづくしかすがにこの城(き)の山に雪は降りつつ

 

(訳)梅の花が雪のように散るというのはどこなのでしょう。そうは申しますものの、この城の山にはまだ雪が降っています。その散る花はあの雪なのですね。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)しかすがに【然すがに】副詞:そうはいうものの。そうではあるが、しかしながら。※上代語。 ⇒参考 副詞「しか」、動詞「す」の終止形、接続助詞「がに」が連なって一語化したもの。中古以降はもっぱら歌語となり、三河の国(愛知県東部)の歌枕(うたまくら)「志賀須賀(しかすが)の渡り」と掛けて用いることも多い。一般には「しか」が「さ」に代わった「さすがに」が多く用いられるようになる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典

(注)-く 接尾語 〔四段・ラ変動詞の未然形、形容詞の古い未然形「け」「しけ」、助動詞「けり」「り」「む」「ず」の未然形「けら」「ら」「ま」「な」、「き」の連体形「し」に付いて〕①…こと。…すること。▽上に接する活用語を名詞化する。②…ことに。…ことには。▽「思ふ」「言ふ」「語る」などの語に付いて、その後に引用文があることを示す。③…ことよ。…ことだなあ。▽文末に用い、体言止めと同じように詠嘆の意を表す。

⇒ 参考(1)一説に、接尾語「らく」とともに、「こと」の意の名詞「あく」が活用語の連体形に付いて変化したものの語尾という。(2)多く上代に用いられ、中古では「いはく」「思はく」など特定の語に残存するようになる。(3)この「く」を準体助詞とする説もある。(学研)

(注)城(き)の山:大野山と同じ。

 

大野山については、日本山岳会HPの「四王寺山(しおうじやま)」で次のように書かれている。「大宰府市のすぐ北になだらかに広がる四王寺山は、最高点のある大城山(410m)を中心に岩屋山・水瓶山・大原山と呼ばれる4つの山から構成され、総称として四王寺山と呼ばれる。白村江の戦いの翌年である664年、大城山の山頂に古代山城である大野城が設置された。

白村江の戦いについては、「コトバンク 世界大百科事典」に次のように書かれている。

「(前略)新羅は唐と連合して百済を攻め滅ぼしたが,百済はなお抵抗して日本に援助を求めた。斉明天皇はこれに応ずるため兵を率いて筑紫に西下したが病死し,また救援軍は663年(天智2)の白村江(はくそんこう)の戦に敗れたため,日本は朝鮮半島から完全に撤退することとなった。中大兄皇子対馬壱岐・筑紫に烽(とぶひ)や防人(さきもり)を置き,水城や大野城・基肄(きい)城を築いて大宰府の防備を固めるとともに,瀬戸内海の要衝にも城を築いて唐・新羅の来攻に備えたが,また都を大和から近江大津宮に移して天智天皇として正式に即位し,近江令の制定や庚午年籍(こうごねんじやく)の作成など内政の推進にも意をそそいだ。」

古来より、近江の地は、渡来人によって文化が繁栄していたので、近江大津京では、新たに百済から逃れて来た文化人を受け入れ、文化に花が咲いたのである。

そしてこの都も、壬申の乱によって荒れ果ててしまったのである。

柿本人麻呂の荒都を悲しむ歌には激動の激しさが物語られている。

この柿本人麻呂の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(236)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 歴史の荒波の中で、壬申の乱では、大伴安麻呂大海人皇子側で戦功をあげ、大納言まで上り詰め、大宰帥を兼務するまでになった。大伴氏族は天皇側の側近としての地位を確保してきたが、律令制に移行する中で必ずしも順風満帆とはいかなかった。その息子旅人が大宰帥として外交・防衛の先頭に立ち、大納言にもなったが、政治に影響する力はほとんどなく、大伴一族のかつての勢いはなくなって行ったのである。

 家持は、安麻呂、旅人と大納言を歴任する名門に生まれるも、歴史の荒波は容赦なく家持を飲み込んでいったのである。頼みとしていた橘諸兄の死、橘奈良麻呂の変での一族との分裂、中納言にまで出世はするものの、もはや大伴氏族の面影は消え失せてしまうのである。ある意味家持は、歌で自分を支えてきたと言っても過言ではないだろう。

家持が少年時代を大宰府で過ごし、ある意味筑紫歌壇に身をおいたことが、後の作歌活動に大きな影響を与えたことは否めない。また兵部少輔として兵務部の仕事をし、防人の歌との接点があった等を考えると、万葉集における大宰府の位置づけは、これまで描いていたイメージと大きく異なってくる。

気楽な気持ちでブログを書いているが、万葉集における大宰府をより深耕すべきと課題が与えられた、そのようなプレッシャーを受けたのである。

今後の課題として挑戦していきたい。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴旅人―人と作品」 中西 進 編 (祥伝社新書)

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「日本山岳会HP」

★「コトバンク 世界大百科事典」

★「太宰府万葉歌碑めぐり」 (太宰府市

★「天空の楽園 太宰府メモリアルパーク『万葉歌碑めぐり』太宰府悠久の歌碑・句碑」 (太宰府メモリアルパーク