●歌は、「春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ」である。
●歌碑は、太宰府市大佐野 太宰府メモリアルパーク(3)にある。
●歌をみていこう。
この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(696)」で紹介している。
➡
◆波流佐礼婆 麻豆佐久耶登能 烏梅能波奈 比等利美都々夜 波流比久良佐武 [筑前守山上大夫]
(山上憶良 巻八 八一八)
≪書き下し≫春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日(はるひ)暮らさむ [筑前守(つくしのみちのくちのかみ)山上大夫(やまのうへのまへつきみ)]
(訳)春が来るとまっ先に咲く庭前の梅の花、この花を、ただひとり見ながら長い春の一日を暮らすことであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫)
筑前国守山上憶良の歌は、万葉集には多数収録されている。次の歌をみてみよう。
この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(506)」のなかで紹介している。
➡
題詞は、「山上憶良臣罷宴歌一首」<山上憶良臣(やまのうえのおくらのおみ)、宴(うたげ)を罷(まか)る歌一首>である。
◆憶良等者 今者将罷 子将哭 其彼母毛 吾乎将待曽
(山上憶良 巻三 三三七)
≪書き下し≫憶良らは今は罷(まか)らむ子泣くらむそれその母も吾(わ)を待つらむぞ
(訳)憶良どもはもうこれで失礼いたしましょう。家では子どもが泣いていましょう。多分その子の母も私の帰りを待っていましょうよ。(同上)
(注)「憶良ら」の「ら」は謙遜の意を添える接尾語。
(注)「彼母毛」:直接「妻」と言わないところに戯笑がこもる。(伊藤脚注)
宴席の座を白けさせずに退席の一首はお見事のひとことにつきる。しかし、三二八から三三七歌は、小野老が従五位上になったことを契機とする宴席の歌と言われている。めでたい宴席で、「憶良らは今は罷らむ」と言い切っているところのマイペースさが、歌のうまさで許容されており、かかる形で万葉集に収録されているところに、大伴旅人の包容力の大きさというか、お互いが認め合っている間柄なのかもしれない。
八一八歌も、大伴旅人の邸宅にみんなで集まって、梅の花を愛でているのであるが、「梅の花ひとり見つつや春日(はるひ)暮らさむ」と、「ひとり」を強調した、やや蚊帳の外的な歌をうたっているとみることができよう。
場の雰囲気を壊さず、マイペースさを通すのは、家柄も何にもなく、学問一筋で出世してきた苦労人であるが故に、失うものは何もないという強さがあるように思えるのである。
次の歌群もみてみよう。
題詞は、「敢布私懐歌三首」<敢(あ)へて私懐(しくわい)を布(の)ぶる歌三首>である。
◆阿麻社迦留 比奈尓伊都等世 周麻比都ゝ 美夜故能提夫利 和周良延尓家利
(山上憶良 巻五 八八〇)
≪書き下し≫天離(あまざか)る鄙(ひな)に五年(いつとせ)住まひつつ都のてぶり忘らえにけり
(訳)遠い田舎に五年も住み続けて、都の風俗、あの風俗を私はすっかり忘れてしまった。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
◆加久能未夜 伊吉豆伎遠良牟 阿良多麻能 吉倍由久等志乃 可伎利斯良受提
(山上憶良 巻五 八八一)
≪書き下し≫かくのみや息づき居(を)らむあらたまの来経(きへ)行(ゆ)く年の限り知らずて
(訳)私は、ここ筑紫でこんなにも溜息(ためいき)ばかりついていなければならぬのであろうか。来ては去って行く年の、いつを限りとも知らずに。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)あらたまの【新玉の】分類枕詞:「年」「月」「日」「春」などにかかる。かかる理由は未詳。(学研)
◆阿我農斯能 美多麻ゝゝ比弖 波流佐良婆 奈良能美夜故尓 咩佐宜多麻波祢
(山上憶良 巻五 八八二)
≪書き下し≫我(あ)が主(ぬし)の御霊(みたま)賜(たま)ひて春さらば奈良の都に召上(めさ)げたまはね
(訳)あなた様のお心入れをお授け下さって、春になったら、奈良の都に私を召し上げて下さいませ。(同上)
左注は、「天平二年十二月六日筑前國守山上憶良謹上」<天平二年十二月六日、筑前国司山上憶良 謹上>である。
大宰府で望郷の意を込め都に戻りたいと、上司の太宰帥である大伴旅人に「敢えて私懐を布(の)ぶる歌」として、八八二歌で、「春さらば奈良の都に召上(めさ)げたまはね」と訴えている。考えようによっては、現在のサラリーマン社会にも通じる本社から地方勤務を命じられた者の心境である。
旅人が大納言として都へ戻ったのは天平二年であるが、その翌年に亡くなっている。旅人の配慮がどのようになされたのかはわからないが、天平四年に憶良は奈良の都に召還されたのであった。そして憶良も天平五年に亡くなったのである。
話は少し脱線するが、八八一歌の枕詞「あらたまの」については、「年」「月」「日」「春」などにかかるが、かかる理由は未詳というのが通説である。
しかし、朴炳植氏は、その著「『万葉集』は韓国語で歌われた 万葉集の発見」の中で、「『アラタマ』の語源は、『改(アラタ)』『新(アラタ)』と同じで、『アラタマノ年』とは『新しくなる年』『次から次へと変わり行く年』の意であると考えられる。」と指摘されている。非常にわかりやすい考えだと思う。
旅人と憶良のお互い反目しあっていたのではとする考え方もあるが、旅人は、掌のなかで憶良が自由に振る舞っているのをむしろ微笑んでいるような気がする。
憶良の歌が、抹殺されずに、記録として残り、万葉集編者の手に渡ったことからもそう考えるのが妥当であるように思える。
編者と言われる家持であれば、自分の大宰府時代の記憶から、旅人、憶良の人となりを見て来たので納得して収録したのではないかと思われる。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「『万葉集』は韓国語で歌われた 万葉集の発見」 朴 炳植 著 (学習研究社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」