万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その906)―滋賀県近江市の山部神社の赤人の歌碑は明治十二年に建てられた

●歌は、「春の野にすみれ摘みにと来しわれぞ野をなつかしみ一夜寝にける」である。

 

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太宰府メモリアルパーク(7)万葉歌碑(山部赤人

●歌碑は、太宰府市大佐野 太宰府メモリアルパーク(7)にある。

 

●歌をみてみよう。

                             

◆春野尓 須美礼採尓等 來師吾曽 野乎奈都可之美 一夜宿二来

               (山部赤人 巻八 一四二四)

 

≪書き下し≫春の野にすみれ摘(つ)みにと来(こ)しわれぞ野をなつかしみ一夜寝(ね)にける

 

(訳)春の野に、すみれを摘もうとやってきた私は、その野の美しさに心引かれて、つい一夜を明かしてしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)なつかし【懐かし】形容詞:①心が引かれる。親しみが持てる。好ましい。なじみやすい。②思い出に心引かれる。昔が思い出されて慕わしい。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 題詞は、「山部宿祢赤人歌四首」<山部宿禰赤人が歌四首>である。

 この歌ならびに他の三首は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その417)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 滋賀県東近江市麻生町は、山部赤人が生涯を閉じた地と言われ、山部神社と赤人寺(しゃくにんじ)が隣接して建っている。神社の境内には、この一四二四歌の歌碑があるが、これは明治十二年に建てられたものであるという。

 

 中西 進氏は、その著「万葉の心」(毎日新聞社)のなかで、この歌に関して「赤人は『なつかし』さゆえに野に一夜をあかす。これが万葉びとの詩のありかた(後略)」と書かれている。さらに「ぼう大な草木の歌が万葉集に歌われるのも、こうした自然との交感の中で、彼らの心が豊かだったからである。」と書いておられる。

 

題詞「山部宿祢赤人歌四首」の他の三首については、ブログ拙稿(その17改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

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 万葉集には、「すみれ」を詠んだ歌が四首収録されている。他の三首をみてみよう。

 

 題詞は、「高田女王歌一首 高安之女也」<高田女王(たかたのおほきみ)が歌一首 高安が女(むすめ)なり」

 

◆山振之 咲有野邊乃 都保須美礼 此春之雨尓 盛奈理鶏利

                (高田女王 巻八 一四四四)

 

≪書き下し≫山吹(やまぶき)の咲きたる野辺(のへ)のつほすみれこの春の雨に盛(さか)りなりけり

 

(訳)山吹の咲いている野辺のつぼすみれ、このすみれは、この春の雨に逢って、今が真っ盛りだ。(同上)

 

 

 題詞は、「大伴田村家毛大嬢與妹坂上大嬢歌一首」<「大伴(おほとも)の田村家(たむらのいへ)の大嬢(おほいらつめ)、妹(いもひと)坂上大嬢に与ふる歌一首>である。

(注)田村大嬢、坂上大嬢については、七五九歌の左注に書かれている。これをみてみよう。

「右、田村大嬢、坂上大嬢は、ともにこれ、右大弁(うだいべん)大伴宿奈麻呂卿(おほとものすくなまろのまへつきみ)が女(むすめ)なり。卿、田村の里に居(を)れば、号(なづ)けて田村大嬢といふ。ただし妹(いもひと)坂上大嬢は、母、坂上の里に居る。よりて坂上大嬢といふ。時に姉妹、諮問(とぶら)ふに歌をもちて贈答す。」

(注の注)大伴宿奈麻呂大伴安麻呂の三男である。坂上大嬢の母は、大伴坂上郎女である。

 

 

◆茅花抜 淺茅之原乃 都保須美礼 今盛有 吾戀苦波

                (田村大嬢 巻八 一四四九)

 

≪書き下し≫茅花(つばな)抜く浅茅(あさじ)が原(はら)のつほすみれ今盛(さか)りなり我(あ)が恋ふらくは

 

(訳)茅花を抜き取る浅茅が原に生えているつぼすみれ、そのすみれのように今真っ盛りです。私があなたに恋い焦がれる気持ちは。(同上)

(注)つばな【茅花】名詞:ちがやの花。ちがや。つぼみを食用とした。「ちばな」とも。(学研)

 

 

 

◆・・・春野尓 須美礼乎都牟等 之路多倍乃 蘇泥乎利可敝之 久礼奈為能 安可毛須蘇▼伎 乎登賣良波・・・

               (大伴池主 巻十七 三九七三)

  • 「女(女偏)+比」→「須蘇▼伎」=「すそびき」

 

≪書き下し≫・・・春の野に すみれを摘むと 白栲(しろたへ)の 袖折り返し 紅(くれない)の 赤裳(あかも)裾(すそ)引き 娘子(をとめ)らは・・・

 

(訳)・・・その春の野で菫(すみれ)を摘むとて、まっ白な袖を折り返し、色鮮やかな赤裳の裾を引きながら、娘子たちは・・・(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 この三九七三歌は、家持が越中に赴任した翌年の二月下旬、病床に伏した時に池主との間で贈答された歌の一首である。やりとりは次の通りである。いずれも手紙文が添えられている。

 二月二〇日 家持→池主 巻十七 三九六二歌(長歌)、三九六三、三九六四歌(短歌)

 二月二九日 家持→池主 巻十七 三九六五、三九六六歌(短歌)

 三月 二日 池主→家持 巻十七 三九六七、三九六八歌(短歌)

 三月 三日 家持→池主 巻十七 三九七〇、三九七一、三九七二歌(短歌)

 三月 四日 池主→家持 七言詩

 三月 五日 池主→家持 巻十七 三九七三歌(長歌)、三九七四、三九七五歌(短歌)

 三月 五日 家持→池主 巻十七 三九七六、三九七七歌(短歌) 

 

 越中で初めての冬に病に倒れ「枉疾(わうしつ)に沈み、ほとほとに泉路(せんろ)に臨む」ほど心細い家持を、池主の励ましはどれほどの心の支えになったことであろうか。

(注)枉疾:よこしまな病気

 

 この後も、池主とは歌の贈答があり、家持の作歌への考え方等へ大きな影響を与えたのである。しかし、池主とは、橘奈良麻呂の変を機に決別の道を選ばざるをえなかったのである。

 家持は、藤原仲麻呂に対する決定的な対立の道を選択しなかったのである。池主は連座したとして捕えられている。なお、池主は大伴氏一族であるが、現存する「大伴系図」には見えないのである。

 藤井一二氏は、その著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」(中公新書)のなかで

「二〇代初めに従七位下の官位をもつことから、蔭位の規定によると従四位の父の庶子か、あるいは天平一〇年以前に正八位上を歴任したのであれば、正五位または従五位を父とする嫡子か庶子であったことになる。ここで想起するのは、家持よりやや年長の「従兄」として、それは旅人の弟ら、家持にとっては叔父たちの庶子であった可能性である。私は池主を田主(たぬし)の庶子とみている。」と推論されている。

 

 「すみれ」から大伴氏一族にここまで深堀できるのも、万葉集が家持の編になるが故であろう。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「太宰府万葉歌碑めぐり」 (太宰府市

★「天空の楽園 太宰府メモリアルパーク『万葉歌碑めぐり』太宰府悠久の歌碑・句碑」 (太宰府メモリアルパーク