●歌は、「妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに」である。
●歌碑は、太宰府市大佐野 太宰府メモリアルパーク(15)にある。
●歌をみていこう。
◆伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陁飛那久尓
(山上憶良 巻五 七九八)
≪書き下し≫妹(いも)が見し棟(あふち)の花は散りぬべし我(わ)が泣く涙(なみた)いまだ干(ひ)なくに
(訳)妻が好んで見た棟(おうち)の花は、いくら奈良でももう散ってしまうにちがいない。。妻を悲しんで泣く私の涙はまだ乾きもしないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)楝は、陰暦の三月下旬に咲く、花期は二週間程度。筑紫の楝の花散りゆく様を見て、奈良の楝に思いを馳せて詠っている。
「楝(あふち)」は「逢う路」、その花が散ってしまえば、「逢えぬさだめ」そういう思いもこめられているのであろう。
この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その127-1)」で紹介している。
タイトル写真は、当初のサンドイッチが写っていますが、削除して本文は改訂しています。
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楝を詠った歌は万葉集では四首収録されている。
他の三首をみてみよう。
◆吾妹子尓 相市乃花波 落不過 今咲有如 有与奴香聞
(作者未詳 巻十 一九七三)
≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)に楝(あふち)の花は散り過ぎず今咲けるごとありこせぬかも
(訳)いとしい子に逢うという名の楝(おうち)の花は、散り失せずに、今咲いているままにあり続けてくれないものか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)わぎもこに【吾妹子に】分類枕詞:吾妹子(わぎもこ)に「逢(あ)ふ」の意から、「あふ」と同音を含む「楝(あふち)の花」「逢坂山(あふさかやま)」「淡海(あふみ)」「淡路(あはぢ)」などにかかる。(学研)
(注)ありこす【有りこす】分類連語:(こちらに対して)あってくれる。 ⇒なりたち
ラ変動詞「あり」の連用形+上代の希望の助動詞「こす」(学研)
◆珠尓奴久 安布知乎宅尓 宇恵多良婆 夜麻霍公鳥 可礼受許武可聞
(大伴書持 巻二十 三九一〇)
≪書き下し≫玉に貫(ぬ)く楝(あふち)を家に植ゑたらば山ほととぎす離(か)れず来(こ)むかも
(訳)薬玉(くすだま)として糸に貫く楝、その楝を我が家の庭に植えたならば、山に棲む時鳥がしげしげとやって来て鳴いてくれることだろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)くすだま【薬玉】名詞:種々の香料を錦(にしき)の袋に入れて、菖蒲(しようぶ)・蓬(よもぎ)の造花で飾って五色の糸を長く垂らしたもの。邪気をよけ、不浄を避けるものとして、五月五日の端午の節句に、柱・簾(すだれ)などに掛けたり身に着けたりした。(学研)
◆保登等藝須 安不知能枝尓 由吉底居者 花波知良牟奈 珠登見流麻泥
(大伴家持 巻二十 三九一三)
≪書き下し≫ほととぎす楝(あふち)の枝に行きて居(ゐ)ば花は散らむな珠と見るまで
(訳)時鳥、この時鳥が、仰せの楝の枝に飛んで行って留ったなら、花は、さぞかしほろほろと散りこぼれることだろう。こぼれ落ちる玉のように。(同上)
三九一〇、三九一三歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その718)」で紹介している。
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三九一〇歌に「玉に貫く」とあるが、奈良県と京都府の県境にある「万葉の小径」に「楝」が植わっている。夕方、街頭に照らされた、まだ枝に残っている楝の実は、まさに枝に貫かれたように輝いている
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)