●歌は、「あをによし奈良の都は咲く花のにほうがごとく今盛りなり」である。
●歌をみていこう。
◆青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有
(小野老 巻三 三二八)
≪書き下し≫あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり
(訳)あをによし奈良、この奈良の都は、咲き誇る花の色香が匂い映えるように、今こそまっ盛りだ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
この歌は、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その870)」で紹介している。
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小野老については、コトバンク 朝日日本歴史人物事典(㈱朝日新聞出版)に次のように書かれている。「没年:天平9.6(737) 生年:生年不詳
奈良時代の官人で万葉歌人。石根の父。天平10(738)年を没年とする説あり。神亀年間(724~29)には大宰少弐として『万葉集』に歌をのこしている。神亀5年大宰大弐となり,香椎浦(福岡市)で「時つ風吹くべくなりぬ香椎潟潮干の浦に玉藻刈りてな」と詠んでいる。大宰大弐のままで死去。業績については,高橋牛養を南島(沖縄諸島)に遣わして,漂着船のためにそれぞれの島に島の名,船の泊所,給水所および本土からの距離を記した碑を建てたと『続日本紀』に記されている。このような老の仕事は当時,遣唐使は南海路を通ることが多かったこともあって,律令政府には南島への関心があったことの表れでもある。(鬼頭清明)」
小野老については、三二八歌のことしか知らなかったというのが正直なところである。しかも、万葉歌碑めぐりをし、いろいろと調べ、ブログを書き初めて知ることの多いこと。
それまでは、この歌が大宰府で詠われたというのを知り愕然とした。
万葉の時代の海外戦略にも驚きであった。
小野老の歌は、万葉集には三首収録されている。
他の二首をみてみよう。
まず「梅花の歌三十二首」の一首である。
◆烏梅能波奈 伊麻佐家留期等 知利須義受 和我覇能曽能尓 阿利己世奴加毛 [少貳小野大夫]
(小野老 巻八 八一六)
≪書き下し≫梅の花今咲けるごと散り過ぎず我(わ)が家(へ)の園(その)にありこせぬかも [少弐(せうに)小野大夫(をののまへつきみ)]
(訳)梅の花よ、今咲いているように散りすぎることなく、この我らの園にずっと咲き続けてほしい。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)少弐(せうに):律令制で、大宰府(だざいふ)の次官(すけ)のうち、下位のもの。大弐の下で庶務をつかさどった。のちに世襲となり、氏の名となった。すないすけ。(コトバンク デジタル大辞泉)
(注)我が家の園:旅人邸宅の庭をさす。われら一同の園の意。
(注)こせぬかも 分類連語:…してくれないかなあ。 ※動詞の連用形に付いて、詠嘆的にあつらえ望む意を表す。 ⇒なりたち 助動詞「こす」の未然形+打消の助動詞「ず」の連体形+疑問の係助詞「か」+詠嘆の終助詞「も」(学研)
この歌は、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(太宰府番外編その2)」で紹介している。
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三首目は、標題「冬十一月大宰官人等奉拜香椎廟訖退歸之時馬駐于香椎浦各述作懐歌」<冬の十一月に、大宰(だざい)の官人等(たち)、香椎(かしい)の廟(みや)を拝(をろが)みまつること訖(をは)りて、退(まか)り帰る時に、馬を香椎の浦に駐(とど)めて、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌>で、題詞が、「大貳小野老朝臣歌一首」<大弐(だいに)小野老朝臣(をののおゆのあそみ)が歌一首>である。
この標題は、九五七から九五九歌の歌群につけられている。これらの歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(873)」で紹介している。
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◆時風 應吹成奴 香椎滷 潮干汭尓 玉藻苅而名
(小野老 巻六 九五八)
≪書き下し≫時つ風吹くべくなりぬ香椎潟(かしひがた)潮干(しほひ)の浦に玉藻(たまも)刈りてな
(訳)海からの風が吹き出しそうな気配になってきた。香椎潟の潮の引いているこの入江で、今のうちに玉藻を刈ってしまいたい。(同上)
(注)ときつかぜ【時つ風】名詞:①潮が満ちて来るときなど、定まったときに吹く風。
②その季節や時季にふさわしい風。順風。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞。
(注)ときつかぜ【時つ風】分類枕詞:決まったときに吹く風の意から「吹く」と同音を含む地名「吹飯(ふけひ)」にかかる。「ときつかぜ吹飯の浜に」(学研)
万葉集を通じて知る、万葉時代の政治には驚かされる。こういった歴史の積み上げのなかに今日の日本がある。歴史をもっともっと知るべきと万葉集から叱咤されたそんな気がする。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」