万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その930,931)―愛知県一宮市萩原町 萬葉公園(1、2)―万葉集 巻三 二七七、巻二〇 四五一二巻

―その930―

  11月に越中高岡ならびに九州太宰府の万葉歌碑めぐりを行った。

 ブログで紹介している歌碑の写真の手持ちが2月20日過ぎには無くなることは分かっていたが、コロナ禍での、外出もままならないので、気をもんでいた。

あちこち、石に歌を彫り込んだ「万葉歌碑」を訪ねたいのはやまやまである。

 万葉植物園的な所は、植物にちなんだ歌碑(プレート)が建てられており、数は稼げるので、これまでも緊急避難的に活用してきた。

 2月16日に愛知県一宮市萩原町の万葉公園と同高松分園ならびに名古屋市東山総合公園の植物園にターゲットを絞った

コロナに関する情報も、幸いに予断は許さないものの数値は下降気味で、緊急事態宣言の解除も話題になっており、思い切って行くことにしたのである。

 マスク、諸毒用小型スプレーなどを用意し、昼食も店には入らないようにパンとおにぎりを事前に準備、PET飲料もリュックに詰め込み新幹線で出かけた。

考えてみれば、オンラインでの情報交換が主となり、一年以上新幹線に乗っていない。

早くコロナが収まってくれればと祈るばかりである。

 

 近鉄電車で京都駅に向かう。車内は結構混んでおり、坐るどころではない。肩が触れ合わない程度であるが、そこそこの密度である、これには驚いた。

 新幹線は、事前に予約する際、座席状況が確認できているので、安全地帯に座っているようなものである。名古屋から尾張一宮までJR在来線特別快速。名鉄に乗り換え漸く萩原駅に到着。

 雪混じりの雨がパラパラ。天気予報を信じ、携帯ナビを頼りに歩き出す。

 日が差し始めるが、風が冷たい。

 駅から15分程度歩いた。万葉公園が迎えてくれる。

 眼に木札の歌碑(プレート)が飛び込んでくる。一枚も見逃すまいとカメラで追う

 

 

●歌は、「早来ても見てましものを山背の多賀の槻群散りにけるかも」である。

 

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一宮市萩原町 萬葉公園(1)万葉歌碑(プレート)<高市黒人

●歌碑(プレート)は、愛知県一宮市萩原町 萬葉公園(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆速来而母 見手益物乎 山背 高槻村 散去毛奚留鴨

                (高市黒人 巻三 二七七)

 

≪書き下し≫早(はや)来ても見てましものを山背(やましろ)の多賀の槻群(たかのつきむら)散にけるかも

 

(訳)もっと早くやって来て見たらよかったのに。山背の多賀のもみじした欅(けやき)、この欅林(けやきばやし)は、もうすっかり散ってしまっている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)山背の多賀:京都府綴喜郡井手町多賀

 

この歌は、題詞「高市連黒人覊旅歌八首」の内の一首である。八首すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(250)」で紹介している。

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 近鉄電車は、国道24号線ならびに木津川とほぼ平行して京都に向かう。進行方向右手、信楽方面はなだらかな丘陵地帯である。国道24号線と信楽方面に行く国道307号線が山城大橋を経てクロスするあたりが多賀である。JRの山城多賀駅がある。

 井手町は、橘諸兄との関わりが強く、足跡が残されている。

 井手町にある橘諸兄の歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(190)」と「同191」に紹介している。

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―その931―

●歌は、「池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を扱入れな」である。

 

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一宮市萩原町 萬葉公園(2)万葉歌碑(プレート)<大伴家持

●歌碑(プレート)は、一宮市萩原町 萬葉公園(2)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆伊氣美豆尓 可氣佐倍見要氐 佐伎尓保布 安之婢乃波奈乎 蘇弖尓古伎礼奈

               (大伴家持 巻二〇 四五一二)

 

≪書き下し≫池水(いけみづ)に影さえ見えて咲きにほふ馬酔木(あしび)の花を袖(そで)に扱(こき)いれな

 

(訳)お池の水の面に影までくっきり映しながら咲きほこっている馬酔木の花、ああ、このかわいい花をしごいて、袖の中にとりこもうではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)こきいる【扱き入る】他動詞:しごいて取る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

この歌は、題詞「山斎(しま)を属目(しよくもく)して作る歌三首」の内の一首である。三首は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(475)」で紹介している。

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 この歌は、中臣清麻呂邸で詠んだ歌である。 天平宝字二年(758年)のことである。

 前の年の1月に、橘諸兄が亡くなっている。政争の激変期、気のあった者同士が、清麻呂邸に集まり宴を開いて聖武天皇の佳き時代を懐かしんでいるのである。

同年7月橘奈良麻呂の変が起こり、これにより、佐伯氏・多治比氏・大伴氏は悉く捕えられ処刑されている。

 家持は、一人かやの外的振る舞いもあってか難を逃れているが、6月に因幡守に任ずる辞令が発せられたのである。藤原仲麻呂による左遷、報復人事といってよいだろう。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「井手町HP」

★「一宮市HP」