●歌は、「我が背子が古き垣内の桜花いまだふふめり一目見に来ね」である。
●歌碑(プレート)は、一宮市萩原町 萬葉公園(7)にある。
●歌をみていこう。
四〇七六から四〇七九歌の歌群の題詞は、「越中國守大伴家持報贈歌四首」<越中(こしのみちなか)の国の守(かみ)大伴家持、報(こた)へ贈る歌四首>である。
この四首には、それぞれ、いまでいうサブタイトルが付いている。「副題詞」と仮に呼ぶことにする。
副題詞は、「一 答属目發思兼詠云遷任舊宅西北隅櫻樹」<一 属目発思(しよくもくはつし)に答へ、兼ねて遷任したる旧宅(きうたく)の西北(いぬゐ)の隅の桜樹(あうじゆ)を詠(よ)みて云ふ>である。
◆和我勢故我 布流伎可吉都能 佐久良婆奈 伊麻太敷布賣利 比等目見尓許祢
(大伴家持 巻十八 四〇七七)
≪書き下し≫我が背子(せこ)が古き垣内(かきつ)の桜花いまだ含めり一目(ひとめ)見に来(こ)ね
(訳)懐かしいあなたがおられたもとのお屋敷の桜の花、その花はまだ蕾(つぼみ)のままです。一目見に来られお。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)かきつ【垣内】:《「かきうち」の音変化か》垣根に囲まれたうち。屋敷地の中。かいと。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
(注)ふふむ【含む】自動詞:花や葉がふくらんで、まだ開ききらないでいる。つぼみのままである。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
この四首は、三月十五日に、大伴池主が家持に、手紙と歌三首を贈ったことに対して、家持がかつて池主が住んでいた家の桜を詠んで答えた歌である。
他の三首もみてみよう。
副題詞は、「一 答古人云」<一 古人云はくに答ふる>である。
◆安之比奇能 夜麻波奈久毛我 都奇見礼婆 於奈自伎佐刀乎 許己呂敝太底都
(大伴家持 巻十八 四〇七六)
≪書き下し≫あしひきの山はなくもが月見れば同(おな)じき里を心隔(へだ)てつ
(訳)立ちはだかる山なんかなければよいのに。月を見ると同じ里であるのに、山にこと寄せて心を隔てておられる。(同上)
この歌は、池主の「月見れば同じ国なり山こそば君があたりを隔てたりけれ(四〇七三歌)」に答えたもので、家持は、「心隔てつ」と戯れて詠んでいる。
なお、池主の歌は、「古人云はく」と副題詞が付いており、「月見れば国は同じぞ山へなり愛(うつく)し妹(いも)はへなりてあるかも(二四二〇歌)」を踏まえている。
副題詞は、「答所心即以古人之跡代今日之意」<所心に答へ、すなはち古人の跡をもちて、今日(けふ)の意に代ふる>である。
(注)すなはち古人の跡をもちて、今日(けふ)の意に代ふる:同時に古人の言い継いできたことによって今の私の思いに代える
◆故敷等伊布波 衣毛名豆氣多理 伊布須敝能 多豆伎母奈吉波 安我未奈里家利
(大伴家持 巻十八 四〇七八)
≪書き下し≫恋ふといふはえも名付(なづ)けたり言ふすべのたづきもなきは我(あ)が身なりけり
(訳)「恋い焦がれる」というのは、なるほどうまく名付けたもの。この苦しさをどう言ったらよいのか、その手立てもないというのは、なるほど今の私の身なのでありました。(同上)
(注)上二句が「古人の跡」に当たる。
(注)えも 分類連語:①〔下に肯定表現を伴って〕よくもまあ(…できるものだ)。②〔下に否定表現を伴って〕どうしても(…できない)。 ※なりたち 副詞「え」+係助詞「も」(学研) ここでは①
(注)たづき【方便】名詞:①手段。手がかり。方法。②ようす。状態。見当。 ※参考 古くは「たどき」ともいった。中世には「たつき」と清音にもなった。(学研)ここでは①の意
(注)言ふすべのたづきもなきは我(あ)が身なりけり:池主の「相思(あひおも)はずあるらむ君をあやしくも嘆きわたるか人の問ふまで(四〇七五歌)」に対して我が恋は、そのような代物ではないと戯れて答えた意である。
「古人の跡」は、例えば三二五五歌の「古(いにしへ)ゆ 言い継(つ)ぎけらく 恋すれば 苦しきものと 玉の緒の 継ぎては言へど・・・(遠く古い時代から言い継いできたことには、恋をすれば苦しいものだと。そのように言い継がれてよく知っていることではあるが・・・」などをさすのであろう。
次の副題詞は、「一 更矚目」<一 さらに嘱目(しよくもく)>である。
(注)さらに:四〇七六から四〇七八歌をまとめることを意味する。
◆美之麻野尓 可須美多奈妣伎 之可須我尓 伎乃敷毛家布毛 由伎波敷里都追
(大伴家持 巻十八 四〇七九)
≪書き下し≫三島野に霞(かすみ)たなびきしかすがに昨日(きのふ)も今日(けふ)も雪は降りつつ
(訳)三島野に霞がたなびいてすっかり春だというのに、それなのに昨日も今日も雪は降り続いていて・・・(同上)
(注)三島野:家持の館から南方に見える野。
(注)雪は降りつつ:三月でも雪深い越中の風土への感慨の中に、別れて住む哀愁をこめて結んでる。
家持にとって、池主と越中時代を共に過ごしたことは、彼の歌風の研鑽に磨きをかけたことは否定できない。
また家持が、越中に赴任して初めての冬に病の倒れた時に池主の励ましはどれほど勇気づけられたことであっただろうか。
家持と池主のこの時の歌のやりとりは、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その854)」で紹介している。
➡
これらの一連の歌を見れば、いかにその絆が強いものであったかがうかがい知れるのである。
お互い古歌に通じ、歌の力量も認め合っているからこその関係であろう。
それなのに、橘奈良麻呂の変により二人の道が別れ別れになるとは・・・。
万葉集の歌の背景に大きな歴史の流れが存在している。この流れをつかんでおかないと歌が心底から理解できない。時間軸、空間軸の知識の蓄積の必要性を痛感させられたのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」