万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その949)―一宮市萩原町 萬葉公園(20)―万葉集 巻三 二六六

●歌は、「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」である。

 

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一宮市萩原町 萬葉公園(20)万葉歌碑<柿本人麻呂

●歌碑は、一宮市萩原町 萬葉公園(20)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念

                (柿本人麻呂    巻三 二六六)

 

≪書き下し≫近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

 

(訳)近江の海、この海の夕波千鳥よ、お前がそんなに鳴くと、心も撓(たわ)み萎(な)えて、いにしえのことが偲ばれてならぬ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ゆふなみちどり【夕波千鳥】名詞:夕方に打ち寄せる波の上を群れ飛ぶちどり。

(注)しのに 副詞:①しっとりとなびいて。しおれて。②しんみりと。しみじみと。③しげく。しきりに。

(注)いにしへ:ここでは、天智天皇の近江京の昔のこと

 

近江の都の荒廃ぶりを思いながら、目の前の夕暮れの琵琶湖畔で鳴く千鳥の物悲しい声にしんみりと歌い上げている。

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その236)」で紹介している。

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 人麻呂には、「「近江荒都を過ぐる時の歌」がある。また、近江から都に上るる時に、宇治川のほとりでよんだ短歌もある。

 

 こちらもみてみよう。

 

 題詞は、「過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌」<近江(あふみ)の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌>である。

 二九歌(長歌)と反歌二首(三〇歌、三一歌)の歌群である。

(注)近江の荒れたる都:天智天皇近江大津京の廃墟

 

 

◆玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従<或云自宮> 阿礼座師 神之盡樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食之乎<或云食来> 天尓満 倭乎置而 青丹吉 平山乎越<或云虚見倭乎置青丹吉平山越而> 何方 御念食可<或云所念計米可> 天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立 春日之霧流<或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴留> 百磯城之 大宮處 見者悲毛<或云見者左夫思母>

              (柿本人麻呂 巻一 二九)

 

≪書き下し≫玉たすき 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の ひじりの御世(みよ)ゆ<或い「宮ゆ」といふ> 生(あ)れましし 神のことごと 栂(つが)の木の いや継(つ)ぎ継ぎに 天(あめ)の下(した) 知らしめししを<或いは「めしける」といふ> そらにみつ 大和(やまと)を置きて あをによし 奈良山を越え<或いは「そらみつ 大和を置きて あをによし 奈良山越えて」といふ> いかさまに 思ほしめせか<或いは「思ほしけめか」といふ> 天離(あまざか)る 鄙(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 近江(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天つ下 知らしめけむ 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿(おほとの)は ここと言へども 春草の 茂(しげ)く生(お)ひたる 霞立つ 春日(はるひ)の霧(き)れる<或いは「霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる」といふ> ももしきの 大宮(おほみや)ところ 見れば悲しも<或いは「見れば寂しも」といふ>

 

(訳)神々しい畝傍の山、その山のふもとの橿原の日の御子の御代(みよ)以来<日の御子の宮以来>、神としてこの世に姿を現された日の御子の悉(ことごと)が、つがの木のようにつぎつぎに相継いで、大和にて天の下を治められたのに<治められて来た>、その充ち充ちた大和を打ち捨てて、青土香る奈良の山を越え<その充ち充ちた大和を捨て置き、青土香る奈良の山を越えて>、いったいどう思しめされてか<どうお思いになったのか>畿内を遠く離れた田舎ではあるけれど、そんな田舎の 石走(いわばし)る近江の国の 楽浪(ささなみ)の大津の宮で、天の下をお治めになったのであろう、治められたその天皇(すめろき)の神の命(みこと)の大宮はここであったと聞くけれど、大殿はここであったというけれど、春草の茂々と生(お)いはびこっている、霞(かすみ)立つ春の日のかすんでいる<霞立つ春の日がほの曇っているのか、夏の草が生い茂っているのか、何もかも霞んで見える>、ももしきの 大宮のこのあとどころを見ると悲しい<見ると、寂しい>。(同上)

(注)たまだすき【玉襷】名詞:たすきの美称。たすきは、神事にも用いた。 ※「たま」は接頭語。

(注)たまだすき【玉襷】分類枕詞:たすきは掛けるものであることから「掛く」に、また、「頸(うな)ぐ(=首に掛ける)」ものであることから、「うなぐ」に似た音を含む地名「畝火(うねび)」にかかる。(学研)

(注)つがのきの【栂の木の】分類枕詞:「つが」の音との類似から「つぎつぎ」にかかる。(学研)

(注)そらにみつ=そらみつ 分類枕詞:国名の「大和」にかかる。語義・かかる理由未詳。「そらにみつ」とも。(学研)

(注)いはばしる【石走る・岩走る】分類枕詞:動詞「いはばしる」の意から「滝」「垂水(たるみ)」「近江(淡海)(あふみ)」にかかる。(学研)

(注)ささなみの【細波の・楽浪の】分類枕詞:①琵琶(びわ)湖南西沿岸一帯を楽浪(ささなみ)といったことから、地名「大津」「志賀(しが)」「長等(ながら)」「比良(ひら)」などにかかる。②波は寄るところから「寄る」や同音の「夜」にかかる。「ささなみの寄り来る」 ⇒参考 『万葉集』には、①と同様の「ささなみの大津」「ささなみの志賀」「ささなみの比良」などの形が見えるが、これらは地名の限定に用いたものであって、枕詞(まくらことば)にはまだ固定していなかったともいわれる。「さざなみの」とも。(学研)

 

 

◆楽浪之 思賀乃辛碕 雖幸有 大宮人之 船麻知兼津

               (柿本人麻呂 巻一 三〇)

 

≪書き下し≫楽浪(ささなみ)の志賀(しが)の唐崎(からさき)幸(さき)くあれど大宮人(おほみやひと)の舟待ちかねつ

 

(訳)楽浪(ささなみ)の志賀の唐崎よ、お前は昔のままにたゆとうているけれども、ここで遊んだ大宮人たちの船、その船はいくら待っても待ち受けることができない。(同上)

 

◆左散難弥乃 志我能<一云比良乃> 大和太 與杼六友 昔人二 亦母相目八毛<一云将會跡母戸八>

              (柿本人麻呂 巻一 三一)

 

≪書き下し≫楽浪(ささなみ)の志賀(しが)の<一には「比良の」といふ>大わだ淀むとも昔(むかし)の人にまたも逢はめやも<一には「逢はむと思へや」といふ>

 

(訳)楽浪(ささなみ)の志賀(しが)の<比良の>大わだよ、お前がどんなに淀(よど)んだとしても、ここで昔の人に、再びめぐり逢(あ)うことができようか、できはしない。(同上)

 

 

 

この歌群については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(233)」で紹介している。

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次に宇治川のほとりで詠った歌をみてみよう。

 

 題詞は、「柿本朝臣人麻呂従近江國上来時至宇治河邊作歌一首」<柿本朝臣人麻呂、近江の国より上り来る時に、宇治の川辺に至りて作る歌一首>である。

 

◆物乃部能 八十氏河乃 阿白木尓 不知代経浪乃 去邊白不母

                                  (柿本人麻呂 巻三 二六四)

 

≪書き下し≫もののふの八十(やそ)宇治川(うぢがわ)の網代木(あじろき)にいさよふ波のゆくへ知らずも             

(訳)もののふの八十氏(うじ)というではないが、宇治川網代木に、しばしとどこおりいさよう波、この波のゆくえのいずかたとも知られぬことよ。(同上)

(注)もののふの【武士の】分類枕詞:「もののふ」の「氏(うぢ)」の数が多いところから「八十(やそ)」「五十(い)」にかかり、それと同音を含む「矢」「岩(石)瀬」などにかかる。また、「氏(うぢ)」「宇治(うぢ)」にもかかる。

(注)「網代」は魚を捕るための仕掛けで、川の中に杭(くい)を打ち並べ、その端に簀(す)を設けたもの。「網代木」はその杭。

(注)いさよふ【猶予ふ】ためらう。たゆたう。停滞する。

 

 近江の荒廃した都を見た衝撃の強さを隠し切れず、呆然といさよう波を見つめている。時間と空間のズレを消化しきれない痛ましい歌である。

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その229)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社

★「万葉集と日本人」 小川靖彦 著 (角川選書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」