万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その956,957)―一宮市萩原町 萬葉公園(28、29)―万葉集 巻十九 四一四三、巻八 八二二

―その956―

●歌は、「春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子」である。

 

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一宮市萩原町 萬葉公園(28)万葉歌碑(プレート)<大伴家持

●歌碑(プレート)は、一宮市萩原町 萬葉公園(28)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立▼嬬

               (大伴家持 巻十九  四一三九)

     ※▼は、「女」+「感」、「『女』+『感』+嬬」=「をとめ」

 

≪書き下し≫春の園(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道に出で立つ娘子(をとめ)

 

(訳)春の園、園一面に紅く照り映えている桃の花、この花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つ娘子(おとめ)よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 

この歌の題詞は、「天平勝寳二年三月一日之暮眺曯春苑桃李花作二首」<天平(てんぴやう)勝宝(しようほう)二年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺曯(なが)めて作る歌二首>である。

 

この歌は、巻十九の巻頭歌である。 直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(825)」で紹介している。

 

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―その957―

●歌は、「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」である。

 

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一宮市萩原町 萬葉公園(29)万葉歌碑(プレート)<大伴旅人

●歌碑(プレート)は、一宮市萩原町 萬葉公園(29)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母 [主人]           (大伴旅人 巻八 八二二)

 

≪書き下し≫我(わ)が園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも  主人

 

(訳)この我らの園に梅の花がしきりに散る。遥かな天空から雪が流れて来るのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも:梅花を雪に見立てている。六朝以来の漢詩に多い。

(注)主人:宴のあるじ。大伴旅人

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その900)」で紹介している。この稿では、旅人の父安麻呂の歌も紹介している。

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 この稿は、旅人と家持親子の歌を紹介する形になった。

さらに、上述の通り、旅人の父安麻呂の歌についてもブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その900)で紹介していると書いた。

 ここでは、安麻呂の兄、御行(みゆき)についてふれてみよう。

 

 大伴御行については、「コトバンク デジタル大辞泉」に、「[?~701]飛鳥時代の豪族・官人。安麻呂の兄。壬申の乱天武天皇を助けた功臣。その後も持統・文武天皇にも仕え、大納言となる。贈右大臣。和歌1首が万葉集に収載。」と書かれている。

 

 天武元年(672年)の壬申の乱の時、大伴吹負(ふけい)や御行(みゆき)ら大伴氏は大海人皇子方につき、飛鳥旧都の留守司(るすのつかさ)や近江軍を滅ぼし、安麻呂がこのことを大海人皇子に伝えたという。この功績により大伴氏一族は、天武朝で要職を務めることとなった。

 大宝(たいほう)元年(701年)御行の死去に伴い、安麻呂が大伴氏の氏の長(うじのおさ)となったのである。安麻呂は慶雲(けいうん)二年(705年)大納言となり大宰帥も兼務したのである。

 

 ここで、大伴御行の歌をみてみよう。

 

 題詞は、「壬申年之乱平定以後歌二首」<壬申(じんしん)の年の乱の平定(しず)まりし以後(のち)の歌二首>である。

 

◆皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都

               (大伴御行 巻十九 四二六〇)

 

≪書き下し≫大君(おほいみ)は神にしませば赤駒(あかごま)の腹這(はらば)ふ田居(たゐ)を都と成(な)しつ

 

(訳)我が大君は神でいらっしゃるので、赤駒でさえも腹まで漬(つ)かる泥深い田んぼ、そんな田んぼすらも、立派な都となされた。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)大君(おほいみ)は神にしませば:偉大な帝業への讃歌

(注)腹這(はらば)ふ田居:馬がはまって耕作に難渋する沼田の続く一帯

 

 左注は、「右一首大将軍贈右大臣大伴卿作」<右の一首は、大将軍贈右大臣大伴卿(おほとものまへつきみ)が作>とある。

 

 御行の歌は、これ一首であるが、題詞にあるもう一首もみてみよう。

 

◆大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通  作者未詳

               (作者未詳 巻十九 四二六一)

 

≪書き下し≫大君は神にしませば水鳥(みづどり)のすだく水沼(みぬま)を都と成しつ 作者未詳

 

(訳)我が大君は神でいらっしゃるので、水鳥のたくさん群れ騒いでいる水沼、そんな沼地すらも、たちまち立派な都とされた。(同上)

(注)すだく【集く】自動詞:①群がり集まる。②(虫や鳥などが)鳴く。(学研)

(注)水鳥(みづどり)のすだく水沼(みぬま):前歌の沼田より一層都にしにくい沼地のこと

 

左注は、「右件二首天平勝寶四年二月二日聞之 即載於茲也」<右の件(くだり)の二首は、天平勝寶(てんびやうしようほう)四年の二月の二日に聞(き)く。すなはちここに載(の)す>である。

(注)天平勝宝四年:752年

(注)聞く:家持が某人から聴取した

 家持は、日記風に宴で詠われた歌などを書き留め、万葉集に掲載していたのである。壬申の乱が672年であるから、80年経った今も宴で、祖父安麻呂の兄御行の歌が、歌われたこと、歌い続けてられていたことに感動して記載したものと思われる。

 

 上野誠氏は、その著「万葉集講義 最古の歌集の素顔」(中公新書)のなかで、「壬申の乱の戦いで活躍した大伴御行が、その乱に勝利した天武天皇を讃える歌を作ったことは、当時から有名になっていたであろうし、そのことを書き留めて残しておきたいと思われたことであろう。有名になった御行の歌は、こうして歌い継がれていたようだ。」と書かれている。

 また、「もともと、五・七・五・七・七の短歌体というものは、上の句を固定して、歌い継いでゆくもので、天皇を讃える表現「大君は神にしませば」に下の句を変えつつ歌ってゆくことが多かった、と思われる。」と書いておられる。

  ちなみに「大君は神にしませば」と歌いだす歌は万葉集では六首収録されている。他の四首をみてみよう。

 

◆大君は神にしませば天雲(あまくも)の五百重(いほへ)下(した)に隠(かく)りたまひぬ(穂積皇子 巻二 二〇五)

 

(訳)わが大君は神であらせられるので、天雲が幾重にも重なるその奥にお隠れになってしまった。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 

◆大君は神にしませば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上(うへ)に廬(いほ)らせるかも(柿本人麻呂 巻三 二三五)

 

(訳)天皇は神であらせられるので、天雲を支配する雷神、その神の上に廬(いおり)をしていらっしゃる。(同上)

 

 

◆大君は神にしませば雲隠(くもがく)る雷山(いかづちやま)に宮(みや)敷きいます(或本の歌 二三五歌の左注)

 

(訳)大君は神であらせられるので、雲に隠れる雷、その雷山に宮殿を造って籠(こも)っておられます。(同上)

 

 

◆大君は神にしませば真木(まき)の立つ荒山中(あらやまなか)に海を成すかも(柿本人麻呂 巻三 二四一)

 

(訳)わが大君は神であらせられるので、杉や檜(ひのき)の茂り立つ人気のない山中に海をお作りになっている。(同上)

(注)海:猟路の池を、皇子の力によってできた海と見てこう言った。

 

この六首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その154)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集講義 最古の歌集の素顔」 上野 誠 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉