万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その960)―一宮市萩原町 万葉公園(32)―万葉集 巻十 一八七四

●歌は、「春霞たなびく今日の夕月夜清く照るらむ高松の野に」である。

 

f:id:tom101010:20210320161148j:plain

一宮市萩原町 万葉公園(32)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、一宮市萩原町 万葉公園(32)にある。   

 

●歌をみていこう。

 

◆春霞 田菜引今日之 暮三伏一向夜 不穢照良武 高松之野尓

               (作者未詳 巻十 一八七四)

 

≪書き下し≫春霞(はるかすみ)たなびく今日(けふ)の夕月夜(ゆふづくよ)清(きよ)く照るらむ高松(たかまつ)の野に

 

(訳)春霞がたなびく中で淡く照っている今宵(こよい)の月、この月は、さぞかし清らかに照らしていることであろう。霞の彼方の、あの高松の野のあたりでは。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

f:id:tom101010:20210320161419j:plain

歌碑と歌の解説案内板

 

 萬葉公園は、八剱社のある北西方向にのびるゾーンと住吉社のある南東方向にのびるゾーンがある。この歌碑は、住吉社ゾーンに入ったところにある小さな池の東側に建てられている。

 

 ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その932,933)」でも触れたが、昭和三十年、詩人の佐藤一秀は、「高松」を詠んだ萬葉歌六首(巻十)は、故郷の『萩の原』の風情を詠んだ歌である、とし、万葉公園設立を要望した。しかし、万葉学者から、「六首のうちの二首(二二三三、二三一九歌)は、当地と歌との結びつきは薄い」との指摘があり、いわゆる「高松論争」が繰り広げられた。

 

 この六首を書き下しのみであげてみるとつぎのとおりである。

 

◆春霞たなびく今日の夕月夜清く照るらむ高松の野に(一八七四歌):本稿で解説

◆我が衣摺れるにはあらず高松の野辺行きしかば萩の摺れるぞ(二一〇一歌)

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その952)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

◆雁が音を聞きつるなへに高松の野の上の草ぞ色づきにける(二一九一歌):

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その946)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

以下三首は、高松分園ゾーンにある。建てられているところは次の通りである。

◆里ゆ異に霜は置くらし高松の野山づかさの色づく見れば(二二〇三歌):白山社

◆高松のこの嶺も狭に笠立てて満ち盛りたる秋の香のよさ(二二三三歌):高松分園

◆夕されば衣手寒し高松の山の木ごとに雪ぞ降りたる(二三一九歌):樫の木文化資料館

 

 万葉歌碑を巡りながら、当公園設立時の「高松論争」を考えて行くのも一興である。

 

 「高松論争」に関してもう少し知りたいと、いろいろアクセスしたが、地元の方のブログ等では詳しいことが分からなかった。詩人の「佐藤一英」で検索するも「高松論争」には至らなかった。

 一宮市HPに、令和元年9月10日に報道発表された「特別展『生誕120年記念 佐藤一英』展のお知らせ」に人となりが次のように紹介されているので引用させていただく。

一宮市萩原町出身の詩人・佐藤一英(1899~1979)の生誕120周年を記念し、その歩みをご紹介します。

大学に在学中、エドガー・アラン・ポーの詩に心酔した一英は、大正11年、23歳のときに、名古屋の詩誌『青騎士』に参加するとともに詩集『晴天』を刊行し、新進の詩人として認められました。その後、倭建命(やまとたけるのみこと)をうたった長編詩『大和し美し(やまとうるわし)』を経て、新たな詩法『聯(れん)』(頭韻12音律4行詩)を確立し、36歳の時に聯組詩『空海頌』を完成させました。この2作は感銘を受けた棟方志功により版画化されました。戦後は故郷に戻り、『日本の文化の根源はカシの木にある』とする『樫の木文化論』を展開。収集した民具を樫の木文化資料館で紹介するとともに、近隣の学校の校歌を数多く作詞しました。

 本展では、各時代の詩集のほか思いをしたためた書や詩画、棟方志功の版画や一英が詩にした円空仏、交流のあった文学者からの書簡などを展示します。生涯を詩と思索にささげ、"耳の詩人”とも呼ばれた佐藤一英の世界を、美しい言葉の響きとともにお楽しみいただきます。」

 

 伊藤 博氏は、その著「万葉集 二」(角川ソフィア文庫)のなかで、一八七四歌の下二句「清く照るらむ高松の野に」の「高松」の脚注で、「『高円』に同じ。一八六六歌」と書かれている。

 一八六六歌は、「雉鳴く高円の辺に桜花散りて流らふ見む人もがも」である。

 二一〇一、二一九一、二二三三、二三一九歌の「高松」の脚注は「一八七四」となっている。二二〇三は脚注は書かれていない。

 

 「高松論争」が引き起こったがために、公園設立は、一旦留保されたが、一宮市は「万葉歌六首の地と明記せず、文化事業として萩を保護し、萬葉の古を偲ぶ市民の憩いの庭を造り、論争の成果を後日に期する」(設立趣旨書)として昭和三十二年(1957年)春、『一宮萬葉公園』を開園した」、とある。(『高松論争』になった萬葉歌」説明案内板 一宮中ライオンズクラブ

 「市民の憩いの庭を造り、論争の成果を後日に期する」とは、心に響く英断である。それに恥じず、公園としての維持管理もきちんとなされており、なかなかに熱い思いを秘めた憩いの公園である。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「一宮市HP」

★「『高松論争』になった萬葉歌」 (一宮中ライオンズクラブ