万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その964,965)―一宮市萩原町 萬葉公園(36、37)―万葉集 巻二 一六六、巻十九 四二〇四

―その964―

●歌は、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」である。

 

f:id:tom101010:20210324151159j:plain

一宮市萩原町 萬葉公園(36)万葉歌碑(プレート)<大伯皇女>

●歌碑(プレート)は、一宮市萩原町 萬葉公園(36)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

              (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

万葉集で馬酔木が詠われている歌は十首収録されている。この歌を含めすべて、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その204)」で紹介している。 

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 大伯皇女(おおくのひめみこ)は、天武天皇の皇女で、母は天智天皇の皇女大田皇女(おおおたのひめみこ)である。天武二年 (673年)斎王に任じられた。朱鳥元年 (686年)に同母弟の大津皇子の謀反事件が起こり、大津皇子が処刑されて間もなく任を解かれた。

 この歌の左注に「・・・伊勢の神宮(かむみや)より京に還る時に・・・」とある。伊勢の神宮とは、「斎王の宮」のことである。

 なお、大伯皇女が大和に戻ったのは11月であり、この左注は編集者の錯覚による注となっている。

 「斎王の宮」については、宮跡に行った時の写真等も含めて、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(429)」で紹介している。

  ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

「史跡斎宮跡(しせきさいくうあと)」は、近畿日本鉄道HP「観光・おでかけ情報」に、「遥か昔、天皇に代わって伊勢神宮に仕えた未婚の皇女『斎王』の宮殿が置かれたところ。史跡内には平安時代の復元建物や博物館など、在りし日の斎宮を偲ぶ施設が点在しています。2015年、斎宮は『日本遺産』に認定されました。」と書かれている。

所在地は、三重県多気明和町斎宮であり、最寄りの駅は「斎宮駅」である。

 

 

 

―その965―

●歌は、「我が背子が捧げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋」である。

 

f:id:tom101010:20210324151359j:plain

一宮市萩原町 萬葉公園(37)万葉歌碑(プレート)<僧恵行>

●歌碑(プレート)は、一宮市萩原町 萬葉公園(37)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆吾勢故我 捧而持流 保寶我之婆 安多可毛似加 青盖

               (講師僧恵行 巻十九 四二〇四)

 

≪書き下し≫我が背子(せこ)が捧(ささ)げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋(きぬがさ)

 

(訳)あなたさまが、捧げて持っておいでのほおがしわ、このほおがしわは、まことにもってそっくりですね、青い蓋(きぬがさ)に。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)我が背子:ここでは大伴家持をさす。

(注)あたかも似るか:漢文訓読的表現。万葉集ではこの一例のみ。

(注)きぬがさ【衣笠・蓋】名詞:①絹で張った長い柄(え)の傘。貴人が外出の際、従者が背後からさしかざした。②仏像などの頭上につるす絹張りの傘。天蓋(てんがい)。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 題詞は、「見攀折保寳葉歌二首」<攀(よ)ぢ折(を)れる保宝葉(ほほがしは)を見る歌二首>とあり、歌碑の僧恵行の歌と大伴家持の歌が収録されている。

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(486)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 僧恵行(えぎょう)については、「コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus」によると、「?-? 奈良時代の僧。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)2年(750)越中(富山県)国分寺で僧尼を監督し,経典を講義する講師をつとめていた。短歌1首が『万葉集』巻19におさめられている。」と書かれている。

 

 恵行の歌は、家持を持ち上げた歌となっているが、こう歌うことにより、家持の人となりを見極めるねらいがあったのかもしれない。

 家持の歌をみてみよう。

 

◆皇神祖之 遠御代三世波 射布折 酒飲等伊布曽 此保寳我之波

               (大伴家持 巻十九 四二〇五)

 

≪書き下し≫すめろきの遠御代御代(とほみよみよ)はい重(し)き折り酒(き)飲(の)みきといふぞこのほおがしは

 

(訳)古(いにしえ)の天皇(すめらみこと)の御代御代(みよみよ)では、重ねて折って、酒を飲んだということですよ。このほおがしわは。(同上)

 

 家持は、淡々とみごとに切り返している。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「近畿日本鉄道HP」