―その985―
●歌は、「もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花」である。
●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(4)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「攀折堅香子草花歌一首」堅香子草(かたかご)の花を攀(よ)ぢ折る歌一首>である。
◆物部乃 八十▼嬬等之 挹乱 寺井之於乃 堅香子之花
(大伴家持 巻十九 四一四三)
※▼は「女偏に感」⇒「▼嬬」で「をとめ」
≪書き下し≫もののふの八十(やそ)娘子(をとめ)らが汲(う)み乱(まが)ふ寺井(てらゐ)の上の堅香子(かたかご)の花
(訳)たくさんの娘子(おとめ)たちが、さざめき入り乱れて水を汲む寺井、その寺井のほとりに群がり咲く堅香子(かたかご)の花よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)もののふの【武士の】分類枕詞:「もののふ」の「氏(うぢ)」の数が多いところから「八十(やそ)」「五十(い)」にかかり、それと同音を含む「矢」「岩(石)瀬」などにかかる。また、「氏(うぢ)」「宇治(うぢ)」にもかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その823)」で紹介している。
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令和二年十一月五日に、越中万葉のメッカ高岡の街を訪れた。
越中国庁の跡とされる勝興寺の境内の二つの歌碑を見て周った後が、「寺井の跡」の歌碑である。
寺を出て、歌に詠まれた堅香子の名を冠したかたかご幼稚園の前の道の緩やかな坂道を寺に沿って上っていく。勝興寺の北西エリアには、台所や米蔵があるが、ちょうどそのあたりから駆け下りる感じのところの隅エリアに歌碑らしきものが見えて来た。(当時の様子は分からないが、台所と井戸をイメージで結んだだけであるが)
歌碑と歌碑の説明案内板と「寺井の跡」の碑がある。
ちょうど、修学旅行か遠足か、中学生の1クラスの学生さんらが高岡市万葉歴史館あたりから、こちらに向かってくる。男女混合であるが、わいわいがやがやと、楽しそうに。
目をとじれば、「もののふの八十娘子らが汲み乱ふ」かの情景が感じられる。
現地ならではの感覚である。
―その986-
●歌は、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」である。
●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(5)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「天皇遊獦蒲生野時額田王作歌」<天皇(すめらみこと)、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまふ時に、額田王(ぬかたのおほきみ)が作る歌>である。
◆茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
(額田王 巻一 二〇)
≪書き下し≫あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る
(訳)茜(あかね)色のさし出る紫、その紫草の生い茂る野、かかわりなき人の立ち入りを禁じて標(しめ)を張った野を行き来して、あれそんなことをなさって、野の番人が見るではございませんか。あなたはそんなに袖(そで)をお振りになったりして。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)あかねさす【茜さす】分類枕詞:赤い色がさして、美しく照り輝くことから「日」「昼」「紫」「君」などにかかる。
(注)むらさき 【紫】①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。
(注)むらさきの 【紫野】:「むらさき」を栽培している園。
(注)しめ【標】:神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。
この歌については、ブログでは度々紹介している。
蒲生野の地といわれるところの歌碑とともに大海人皇子の歌も、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(258)」で紹介している。
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題詞のある「蒲生野」については、「コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」には、「滋賀県中南部の愛知川(えちがわ)中流左岸の台地。東近江(おうみ)市西部、近江八幡(おうみはちまん)市東部などの範囲をいう。古代には狩猟の場で、額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)の相聞(そうもん)歌『あかねさす紫野行き……』(万葉集 巻1)で知られる。歌碑が舟岡山にある。中世以降、その開発が進み、現在では農業用地が広がる」と書かれている。
令和元年十一月四日に滋賀県東近江市の万葉の森船岡山を訪れている。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(258)」の写真にある船岡山のふもとにある蒲生野での遊猟の様子を描いた巨大なレリーフをみているとタイムスリップして遊猟に参加しているような感覚に引き込まれる。
歌碑も現地にちなんだところにあると歌の作り人の感覚がよみがえってくるように思えて来るのである。
現地の魔力かもしれない。
犬養 孝氏が、その著「万葉の人びと」(新潮文庫)の中で、「・・・万葉の歌は、あたう限り歴史と共に、時代と共に理解していかねばならない。そうしてまた、風土と共に理解していかなくてはなりません。このようにして、万葉の歌を理解し、万葉の人びととの心の世界を探っていってみたい・・・」と書かれている。
このことを肝に銘じ、万葉歌碑を通して万葉集に挑戦していきたい。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」