●歌は、「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」である。
●歌をみていこう。
◆和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母 [主人] (大伴旅人 巻八 八二二)
≪書き下し≫我(わ)が園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも 主人
(訳)この我らの園に梅の花がしきりに散る。遥かな天空から雪が流れて来るのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)
(注)天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも:梅花を雪に見立てている。六朝以来の漢詩に多い。
(注)主人:宴のあるじ。大伴旅人。
「梅花の歌三十二首」の一つである。この歌については、これまでも度々ブログの中で紹介してきた。
今回は、旅人の生涯をこれまでにブログで紹介した歌を主軸に追ってみよう。
■天智(称制)四年(665年)大納言大伴安麻呂の長男として生まれる。
■神亀五芽(728年)大宰府着任後間もなくして妻(大伴郎女)を亡くす。
■天平二年(730年)正月、梅花宴を催す。
■同 十一月、大納言に任ぜられ、十二月、上京。
■天平三年(731年)七月 没(六十七歳)
(注)称制:天皇の在位しないとき,皇族が天皇に代わって政治を執ることをいう。古来,称制の事例は,清寧天皇の没後に億計(おけ)(仁賢天皇),弘計(おけ)(顕宗天皇)両皇子が互いに辞譲して皇位につかなかった間,姉の飯豊青(いいとよあお)皇女が政務を執ったのを初例とし,ついで斉明天皇の没後,皇太子中大兄皇子が3年間称制した例,天武天皇の没後,皇后鸕野讃良(うののさらら)媛(持統天皇)が同じく3年間政務を執った例の3例がある。(コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)
万葉集に収録されている旅人の歌は七十二首である。その内の六十三首は大宰府時代に詠まれている。
大宰府赴任以前は、吉野行幸歌(奏上にいたらずとある)二首(三一五、三一六歌)、大納言となり帰京後七首(四五一から四五三歌、五七四・五七五歌、九六九、九七〇歌)となっている。
吉野行幸歌ならびに大宰府時代に作歌が集中している事情に関しては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その974)」で紹介している。
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大宰府の帥として着任してほどなく妻を亡くすのである。この時に、七九三歌(世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりける)を詠んでいる。この報凶問歌は、序文(書簡文)は漢文で、和歌を詠む「漢倭混淆(こんこう)」形式を生み出し、これが歌の在り方に新風を吹き込んだのである。山上憶良は、この形式に刺激を受け、呼応した形で日本挽歌を旅人に奉っている。これが世にいう筑紫歌壇の形成の始まりであった。
七九三歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その909)」で紹介している。
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憶良の日本挽歌群については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その910)」で紹介している。
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「梅花の歌三十二首 幷せて序」については、
序文と旅人の八二二歌を、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(大宰府番外編その1)で、
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八一五から八二一歌を、同・その2で
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八二三から八二九歌を、同・その3で
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八三〇から八三七歌を、同・その4で
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八三八から八四五歌を、同・その5で紹介している。
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亡妻悲傷歌のうち、「故人を思ひて恋ふる歌三首」(四三八から四四〇歌)、「京に向ひて道に上る時に作る歌五首」(四四六から四五〇歌)、ならびに帰京後七首のうちの故郷の家に還り入りて、すなはち作る歌三首」(四五一から四五三歌)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その895)」で紹介している。
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三位以上の人が、父母や妻を喪った時には、勅使が派遣されることになっているが、この勅使の歌に対して、旅人が和(こた)えた歌が一四七三歌(橘の花散る里のほととぎす片恋しつつ鳴く日しぞ多き)である。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その896)」で紹介している。
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ユニークな題材を扱った「酒を讃(ほ)むる歌十三首」(三三八から三五〇歌)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その898-1)、同・898-2で紹介している。
➡ 三三八から三四四歌
➡ 三四五から三五〇歌
小野老が従五位上になったことを契機に宴席がもたれそこで詠われた歌群がある。(三二八から三三七歌)。
小野老の三二八歌(あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり)ではじまり、大伴四綱の三二九、三三〇歌(藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君)問いに対して、大伴旅人が三三一、三三二歌で答え、さらに三三三から三三五歌で吉野ならびに明日香への望郷の気持ちを詠っている。
沙弥満誓の三三六歌、山上憶良の三三七歌(宴を罷る歌:憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ)で締めている。一つの歌物語的な歌群になっている。
三二八から三三七歌すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その508)」で紹介している。
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帰京後七首のうちの沙弥満誓とのやり取り五七四、五七五歌(草香江の入江にあさる葦鶴のあなたづたづし友なしにして)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その916)」で紹介している。
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題詞、「冬十二月大宰帥大伴卿上京時娘子作歌二首」<冬の十二月に、大宰帥大伴卿、京(みやこ)に上(のぼ)る時に、娘子(をとめ)が作る歌二首>(九六五ならびに九六六歌)に対して旅人が和(こた)えた歌二首(九六七ならびに九六八歌:ますらをと思へる我れや水茎の水城の上に涙拭はむ)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その801)」で紹介している。
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万葉集には、大伴旅人の歌は、七十二首収録されていると書いたが、大伴家持の歌は四百七十九首におよぶ。大伴氏の歌とみていくと、池主(いけぬし)、駿河麻呂、百代、書持(ふみもち)、四綱(よつな)、坂上郎女、坂上大嬢他の歌を合わせると七百首を越えるのである。
大伴氏一族の万葉集における位置づけを考えていくことも求められるのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)