万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その995)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(14)―万葉集 巻十三 三二三八

●歌は、「逢坂をうち出でてみれば近江の海白木綿花に波立ちわたる」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(14)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(14)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆相坂乎 打出而見者 淡海之海 白木綿花尓 浪立渡

               (作者未詳 巻十三 三二三八)

 

≪書き下し≫逢坂(あふさか)をうち出(い)でて見れば近江の海白木綿花(しらゆふばな)に波立ちわたる。

 

(訳)逢坂の峠をうち出て見ると、おお、近江の海、その海には、白木綿花のように波がしきりに立ちわたっている。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)白木綿花(読み)しらゆうばな:白木綿を花に見立てた言い方。波や水の白さのたとえとして用いられる。(コトバンク デジタル大辞泉

(注の注)ゆふ【木綿】名詞:こうぞの樹皮をはぎ、その繊維を蒸して水にさらし、細く裂いて糸状にしたもの。神事で、幣帛(へいはく)としてさかきの木などに掛ける。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

「木綿(ゆふ)」を詠んだ歌、題詞「十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首」<十市皇女(といちのひめみこ)の薨(こう)ぜし時に、高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の作らす歌三首>のうちの一首(一五七歌)をみてみよう。

 

◆神山之 山邊真蘇木綿    短木綿 如此耳故尓 長等思伎

                 (高市皇子 巻二 一五七)

 

≪書き下し≫三輪山(みわやま)の山邊(やまべ)真蘇木綿(まそゆふ)短木綿(みじかゆふ)かくのみゆゑに長くと思ひき

 

(訳)三輪山の麓に祭る真っ白な麻木綿(あさゆふ)、その短い木綿、こんなに短いちぎりであったのに、私は末長くとばかり思い頼んでいたことだった。(伊藤 博著「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)真蘇木綿(まそゆふ):麻を原料とした木綿 (ゆう)(コトバンク デジタル大辞泉

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その68改)」で紹介している。(初期ブログであるのでタイトル写真は朝食の写真のままであるが、本分は改訂し朝食関連記事は削除しています。ご容赦下さい。)

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 歌碑(プレート)の三二三八歌は、長歌(三二三六歌)あるいは、「或本の歌に日(い)はく」とある長歌(三二三七歌)の反歌である。

 

 三二三六歌ならびに三二三七歌をみてみよう。

 

◆空見津 倭國 青丹吉 常山越而 山代之 管木之原 血速舊 于遅乃渡 瀧屋之 阿後尼之原尾 千歳尓 闕事無 万歳尓 有通将得 山科之 石田之社之 須馬神尓 奴左取向而 吾者越徃 相坂山遠

              (作者未詳 巻十三 三二三六)

 

≪書き下し≫そらみつ 大和(やまと)の国 あをによし 奈良山(ならやま)越えて 山背(やましろ)の 管木(つつき)の原 ちはやぶる 宇治の渡り 滝(たき)つ屋の 阿後尼(あごね)の原を 千年(ちとせ)に 欠くることなく 万代(よろづよ)に あり通(かよ)はむと 山科(やましな)の 石田(いはた)の杜(もり)の すめ神(かみ)に 幣(ぬさ)取り向けて 我(わ)れは越え行く 逢坂山(あふさかやま)を

 

(訳)そらみつ大和の国、その大和の奈良山を越えて、山背の管木(つつき)の原、宇治の渡し場、岡屋(おかのや)の阿後尼(あごね)の原と続く道を、千年ののちまでも一日とて欠けることなく、万年にわたって通い続けたいと、山科の石田の杜の神に幣帛(ぬさ)を手向けては、私は越えて行く。逢坂山を。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)そらみつ:[枕]「大和(やまと)」にかかる。語義・かかり方未詳。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)奈良山:奈良県北部、奈良盆地の北方、奈良市京都府木津川(きづがわ)市との境界を東西に走る低山性丘陵。平城山、那羅山などとも書き、『万葉集』など古歌によく詠まれている。古墳も多い。現在、東半の奈良市街地北側の丘陵を佐保丘陵、西半の平城(へいじょう)京跡北側の丘陵を佐紀丘陵とよぶ。古代、京都との間に東の奈良坂越え、西の歌姫越えがあり、いまは国道24号、関西本線近畿日本鉄道京都線などが通じる。奈良ドリームランド(1961年開園、2006年閉園)建設後は宅地開発が進み、都市基盤整備公団(現、都市再生機構)によって平城・相楽ニュータウンが造成された。(コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>)

(注)管木之原(つつきのはら):今の京都府綴喜郡同志社大学田辺キャンパスがある。

(注)岡谷:宇治市宇治川東岸の地名

(注)石田の杜:「京都市伏見区石田森西町に鎮座する天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ・旧田中神社・石田神社)の森で,和歌の名所として『万葉集』などにその名がみられます。(中略)現在は“いしだ”と言われるこの地域ですが,古代は“いわた”と呼ばれ,大和と近江を結ぶ街道が通り,道中旅の無事を祈って神前にお供え物を奉納する場所でした。」(レファレンス協同データベース)

(注)あふさかやま【逢坂山】:大津市京都市との境にある山。標高325メートル。古来、交通の要地。下を東海道本線のトンネルが通る。関山。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

(注)すめ神:その土地を支配する神

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その231改)で紹介している。

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歌碑の三二三六歌には、地名が「倭」、「常山」、「山代」、「管木之原」、「于遅」、「瀧屋(岡屋?)」、「阿後尼之原」、「山科」、「石田」、「相坂山」と十か所も歌われている。それだけに、「千歳尓 闕事無 万歳尓 有通将得」と固く心に秘め、力強く「吾者越徃」様が生き生きと伝わってくるのである。

 

 

 題詞「或本歌曰」<或本の歌に曰(い)はく>の三二三七歌をみてみよう。

 

◆緑丹吉 平山過而 物部之 氏川渡 未通女等尓 相坂山丹 手向草 絲取置而 我妹子尓 相海之海之 奥浪 来因濱邊乎 久礼ゝゝ登 獨曽我来 妹之目乎欲

              (作者未詳 巻十三 三二三七)

 

≪書き下し≫あをによし 奈良山過ぎて もののふ宇治川(うぢがは)渡り 娘子(をとめ)らに 逢坂山に 手向(たむ)けくさ 幣(ぬさ)取り置きて 我妹子(わぎもこ)に 近江(あふみ)の海(うみ)の 沖つ波 来寄(きよ)る浜辺(はまへ)を くれくれと ひとりぞ我(あ)が来(く)る 妹(いも)が目を欲(ほ)り

 

(訳)あおによし奈良山、その山を通り過ぎて、もののふ宇治川を渡り、おとめに逢うという坂山に手向けの物を供えて無事を祈り、我がいとしい子に逢うという江の海の、沖つ波が打ち寄せる浜辺を、とぼとぼと私はやって来る。家に残したあの子に逢いたいと思いながら。(同上)

(注)もののふの【武士の】分類枕詞:「もののふ」の「氏(うぢ)」の数が多いところから「八十(やそ)」「五十(い)」にかかり、それと同音を含む「矢」「岩(石)瀬」などにかかる。また、「氏(うぢ)」「宇治(うぢ)」にもかかる。(学研)

(注)をとめらに【少女らに】分類枕詞:「少女(をとめ)」に会う意から「相坂(あふさか)」「ゆきあひ」にかかる。(学研)

(注)たむけぐさ【手向け草】名詞:神仏に供える物。布・糸・木綿(ゆう)・紙など。(学研)

(注)わぎもこに【吾妹子に】分類枕詞:吾妹子(わぎもこ)に「逢(あ)ふ」の意から、「あふ」と同音を含む「楝(あふち)の花」「逢坂山(あふさかやま)」「淡海(あふみ)」「淡路(あはぢ)」などにかかる。(学研)

(注)くれくれ(と)【暗れ暗れ(と)】副詞:①悲しみに沈んで。心がめいって。②(道中)苦労しながら。はるばる。 ※後には「くれぐれ(と)」。(学研)

(注)めをほる【目を欲る】分類連語:見たい。会いたい。(学研)

 

 平城山(ならやま)付近から逢坂山付近まで約50kmである。小生も大津や高島などに行く時にこのルートをよく使う。もちろん車であるが、万葉びとは、歩きかせいぜい馬であろう。いまでは逢坂山トンネルを抜けても琵琶湖は感動を呼ぶほどには見えないが、万葉歌碑を訪ねてあちこち巡っていると、峠を越えると急に海など視界に飛び込んでくることがある。その時の感動の何倍も万葉びとは味わって歌にしたのであろう。

 瞬間の感動美が「白木綿花に波立ちわたる」と口をついて出たのであろう。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>」

★「レファレンス協同データベース」