●歌は、「置きて行かば妹ばま愛し持ちて行く梓の弓の弓束にもがも」である。
●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(15)にある。
●歌をみていこう。
◆於伎弖伊可婆 伊毛婆麻可奈之 母知弖由久 安都佐能由美乃 由都可尓母我毛
(作者未詳 巻十四 三五六七)
≪書き下し≫置きて行(い)かば妹(いも)はま愛(かな)し持ちて行(ゆ)く梓(あづさ)の弓の弓束(ゆづか)にもがも
(訳)家に残して行ったら、お前さんのことはこの先かわいくってたまらないだろう。せめて握り締めて行く、この梓(あずさ)の弓の弓束であってくれたらな。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より
(注)まかなし【真愛し】形容詞:切ないほどいとしい。とてもいじらしい。 ※「ま」は接頭語。上代語。(学研)
(注)ゆつか【弓柄・弓束】名詞:矢を射るとき、左手で握る弓の中ほどより少し下の部分。また、そこに巻く皮や布など。「ゆづか」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)もがも 終助詞:《接続》体言、形容詞・断定の助動詞の連用形などに付く。〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。 ※上代語。終助詞「もが」に終助詞「も」が付いて一語化したもの。(学研)
巻十四の、三五六七~三五七一歌の五首の題詞は、「防人歌」<防人歌(さきもりうた)>である。
三五六七、三五六八歌の左注は、「右二首問答」<右の二首は問答>である。
三五六八歌をみてみよう。
◆於久礼為弖 古非波久流思母 安佐我里能 伎美我由美尓母 奈良麻思物能乎
(作者未詳 巻十四 三五六八)
≪書き下し≫後(おく)れ居(ゐ)て恋(こ)ひば苦しも朝猟(あさがり)の君が弓にもならましものを
(訳)あとに残されていて恋い焦がれるのは苦しくてたまりません。毎朝猟にお出かけのあなたがお持ちの弓にでもなりたいものです。(同上)
(注)おくれゐる【後れ居る】自動詞:あとに残っている。取り残される。(学研)
[左注]右二首<問>答
防人として出征していく夫と妻の問答歌である。防人は東国農庶民といわれているが、感じたことをそのまま歌にしたといえばそれまでであるが、なかなか洒落た言い回しである。歌垣等の民謡的な歌を踏まえて重ね合わせたのかもしれない。
三五六九~三五七一歌もみてみよう。
◆佐伎母理尓 多知之安佐氣乃 可奈刀▼尓 手婆奈礼乎思美 奈吉思兒良波母
(作者未詳 巻十四 三五六九)
▼は、「亻+弖」である。「で」と読む。
≪書き下し≫防人(さきもり)に立ちし朝明(あさけ)のかな門出(とで)に手離(たばな)れ惜(を)しみ泣きし子らばも
(訳)防人に出で立った夜明けの門出の時に、この私から離れるのをせつながって泣いた子、あの子はああ。(同上)
(注)ばも:「はも」の訛り。
(注)かなとで【金門出】名詞:「かどで」に同じ。(学研)
◆安之能葉尓 由布宜里多知弖 可母我鳴乃 左牟伎由布敝思 奈乎波思努波牟
(作者未詳 巻十四 三五七〇)
≪書き下し≫葦(あし)の葉に夕霧(ゆふぎり)立ちて鴨(かも)が音(ね)の寒き夕(ゆうへ)し汝(な)をば偲(しの)はむ
(訳)葦の葉群れ一面に夕霧が立ちこめ、鴨の鳴き声が寒々と聞こえてくる夕べ、そんな夕暮れ時には、あなたのことがひとしお偲ばれることであろう。(同上)
(注)葦は難波の風物。難波での心情を先取って詠っている。
◆於能豆麻乎 比登乃左刀尓於吉 於保々思久 見都々曽伎奴流 許能美知乃安比太
(作者未詳 巻十四 三五七一)
≪書き下し≫己妻(おのづま)を人の里に置きおほほしく見つつぞ来(き)ぬるこの道の間(あひだ)
(訳)この俺の妻なのに、その妻を、よその村里に置き去りにしたまま、欝々と見返り見返り俺はやって来た。この道中を、ずっと。(同上)
(注)つつ 接続助詞《接続》動詞および動詞型活用の助動詞の連用形に付く。:①〔反復〕何度も…ては。②〔継続〕…し続けて。(ずっと)…していて。③〔複数動作の並行〕…しながら。…する一方で。④〔複数主語の動作の並行〕みんなが…ながら。それぞれが…して。⑤〔逆接〕…ながらも。…にもかかわらず。⑥〔単純な接続〕…て。▽接続助詞「て」と同じ用法。⑦〔動作の継続を詠嘆的に表す〕しきりに…していることよ。▽和歌の末尾に用いられ、「つつ止め」といわれる。 ⇒語の歴史 「つつ」は現代語では、文語の中で用いられる。現代語の「つつ」は、「道を歩きつつ本を読む」のように、二つの動作の並行か、「今、読みつつある本」のように、動作の継続かの意味で用いられる。古語の用例も、ともすれば、この意味に解釈しやすい傾向がある。古語では①の意味で用いられることが多いが、これも二つの動作の並行の意味に誤解されることが多いので注意する必要がある。この動作の反復の意は現代語の接続助詞ではとらえられず、その意に当たる副詞的な語を補うか、「つつ」の上の動詞を繰り返すかなどすると、その意味がとらえやすい。(学研)
万葉集の歌の鑑賞や批評の言葉を書くのは江戸時代以降で、平安や中世では万葉集の「古語」や「難語」の説明に注力していたようである。
小川靖彦氏は、その著「万葉集と日本人 読み継がれる千二百年の歴史」(角川選書)に、「鎌倉時代の仙覚(せんがく)の『万葉集注釈(まんようしゆうちゅうしやく)』も、本文校訂、読み下し、難語の解釈、歌の意味を詳細に記すストイックな注釈書ですが、例外的に一箇所だけ、鑑賞・批評の言葉を書き記したところがあります。(中略)<上記の三五七〇歌と訳が書かれているが、省略させていただきます。>この防人歌(さきもりうた)について、『この歌のことばづかひ、心(こころ)ばせ、やさしき歌なり(この歌のことばづかいや、心のあり方は、おだやかで優美な歌である)』と述べています。(中略)仙覚は・・・秀歌を新たに発見した喜びに、思わず観賞・批評のことばを書きつけたのでしょう。(後略)」と書いておられる。
「東歌」のイメージとかけ離れた歌であることはまちがいない。
この防人歌五首ともに人の心根に軸足をおいた歌である。
巻十四の「東歌」には、防人歌としてこの五首しか収録されていない。
巻二十の題詞「天平勝宝七歳乙未(きのとひつじ)の二月に、相替(あふかは)りて筑紫(つくし)に遣(つか)はさゆる諸国の防人等(さきもりら)が歌」他にも防人歌は収録されている。
防人は東国出身者であるので巻十四は、「東歌」のなかの「防人歌」として編纂され、巻二十の場合は、諸国の防人部領使(さきもりのことりづかひ)の手を経て大伴家持に渡ったというルートの違いだけであるのかは知る由もないが、防人歌の歌としての万葉集にある位置づけは、ある意味「歌物語」としては必然性を有しているといえるであろう。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉集と日本人 読み継がれる千二百年の歴史」 小川靖彦 著 (角川選書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」