万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1017)―春日井市東野町 万葉の小道(14)―万葉集 巻十九 四二二六

●歌は、「この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む」である。

 

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春日井市東野町 万葉の小道(14)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、春日井市東野町 万葉の小道(14)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆此雪之 消遺時尓 去来歸奈 山橘之 實光毛将見

                       (大伴家持 巻十九 四二二六)

 

≪書き下し≫この雪の消殘(けのこ)る時にいざ行かな山橘(やまたちばな)の実(み)の照るも見む

 

(訳)この雪がまだ消えてしまわないうちに、さあ行こう。山橘の実が雪に照り輝いているさまを見よう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)やまたちばな【山橘】名詞:やぶこうじ(=木の名)の別名。冬、赤い実をつける。[季語] 冬。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

題詞は、「雪日作歌一首」<雪の日に作る歌一首>である。

 

左注は、「右一首十二月大伴宿祢家持作之」<右の一首は、十二月に大伴宿禰家持作る>である。

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歌碑と歌の解説案内板

 

 天平勝宝二年(750年)越中時代の歌である。翌年の七月に少納言として都に戻る知らせが届いている。

「しなざかる鄙」越中で悶々としつつも、都に戻る希望をいだき、ある意味でエネルギーをため込んでいたのであるから、残雪の中、「山橘(やまたちばな)の実(み)の照るも見む」と「いざ行かな」と将来の希望をつかみ取ろうとする意欲的な歌となっている。

 

 この歌については、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その832)」で紹介している。

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 家持は、もう一首、「山橘」の歌を詠っている。こちらもみてみよう。

 

題詞は、「冬十一月五日夜小雷起鳴雪落覆庭忽懐感憐聊作短歌一首」<冬の十一月の五日の夜(よ)に、小雷起(おこ)りて鳴り、雪落(ふ)りて庭を覆(おほ)ふ。たちまちに感憐(かんれん)を懐(いだ)き、いささかに作る短歌一首>である。

 

◆氣能己里能 由伎尓安倍弖流 安之比奇乃 夜麻多知波奈乎 都刀尓通弥許奈

              (大伴家持 巻二十 四四七一)

 

≪書き下し≫消残(けのこ)りの雪にあへ照るあしひきの山橘(やまたちばな)をつとに摘(つ)み来(こ)な

 

(訳)幸いに消えずに残っている白い雪に映えて、ひとしお赤々と照る山橘、その山橘の実を、家づとにするため行って摘んでこよう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)つと【苞・苞苴】名詞:①食品などをわらで包んだもの。わらづと。②贈り物にする土地の産物。みやげ。(学研) ここでは②の意

 

左注は、「右一首兵部少輔大伴宿祢家持」<右の一首は、兵部少輔大伴宿禰家持>である。

 

 この歌は、「兵部少輔」とあるから、難波で詠ったものと思われる。

兵部少輔になったのは天平勝宝六年(754年)である。

 

  家持が越中から都に帰ったのは、天平勝宝三年(751年)のことである。

 あの有名な「春愁三歌」(四二九〇から四二九二歌)を歌ったのは、天平勝宝五年(753年)である。

 「春愁三歌」の背景には、しなざかる鄙、越中からようやく都に戻ることができたのであるが、藤原仲麻呂の台頭著しく、じわじわと家持は追い詰められていることを肌に感じ、「鬱屈(うっくつ)した気分」になっていったことがあると考えられるのである。

 

 「春愁三歌」については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その32改)」で紹介している。

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 同じ山橘が詠われているが、越中時代の四二二六歌と比べると四四七一歌の山橘は。「感憐(かんれん)を懐(いだ)き」作った現実的な歌でる。

動機も「つと」でありそれを「摘(つ)み来(こ)な」というのである。

このように詠わしめたのは、上述のような時代的背景が家持を包み込んでいるからなのではと思うのである。

 

「山橘」に橘諸兄の存在を重ね合わせて見ると家持の思いが感じ取れるような気がするのである。

 

橘諸兄は、光明皇后の異父兄で葛城王と称する皇族であったが、天平八年(736年)、橘宿禰姓を賜わり,名を諸兄と改めた。

橘諸兄が政治の世界で全盛期を迎えるのは、天平九年(737年)天然痘が大流行し、藤原不比等四子(武智麻呂,房前,宇合,麻呂) が相次いで没し、大納言、右大臣と躍進していった頃である。しかし,天平十二年(740年)の藤原広嗣の乱恭仁京遷都の失敗などにみまわれ、同十五年(743年)左大臣になるも、藤原仲麻呂の台頭によって、その影は薄くなっていった。天平勝宝八歳(756年)藤原仲麻呂一族に誣告(ぶこく)され自ら官を辞した。そして翌年失意のうちに亡くなったのである。

 

橘諸兄が、田辺福麻呂を「左大臣橘家之使者」として、その当時、越中守であった大伴家持のところに遣わしている。その目的は、時の政治情勢や京の様子、そして左大臣橘諸兄の政治的擁護者である元正太上天皇の病状や藤原氏の動向などであっただろう。また、福麻呂は越中を離れる際に、元正太上天皇左大臣橘諸兄・河内女王(かわちのおおきみ)・粟田(あわた)女王らの歌を家持に伝誦しているのである。

 

天平勝宝元年(749年)聖武天皇が譲位して孝謙天皇が即位すると藤原仲麻呂は、大納言となり,さらに皇権を掌握した叔母の光明皇太后のために新しく設置された紫微中台の長官紫微令をも兼任した。

孝謙天皇・その母光明皇太后藤原仲麻呂ラインが出来上がったのである。それに対抗するのが聖武太上天皇左大臣橘諸兄ラインであった。

 

「消残(けのこ)りの雪にあへ照る」と詠っているのは、左大臣橘諸兄の当時の権勢であり、家持をしてこのように詠わしめたのであろう。

 

 橘諸兄大伴家持とに接点等については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その982)」で紹介している。

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 万葉集には山橘を詠んだ歌は五首収録されている。この五首すべて、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その664)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」