●歌は、「山吹は日に日に咲きぬうるはしと我が思う君はしくしく思ほゆ」である。
●歌碑は、愛知県豊明市新栄町 大蔵池公園(3)にある。
●歌をみていこう。
◆夜麻夫枳波 比尓ゝゝ佐伎奴 宇流波之等 安我毛布伎美波 思久ゝゝ於毛保由
(大伴池主 巻十七 三九七四)
≪書き下し≫山吹は日(ひ)に日(ひ)に咲きぬうるはしと我(あ)が思(も)ふ君はしくしく思ほゆ
(訳)山吹は日ごとに咲き揃います。すばらしいと私が思うあなたは、やたらしきりと思われてなりません。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)うるはし【麗し・美し・愛し】形容詞:①壮大で美しい。壮麗だ。立派だ。②きちんとしている。整っていて美しい。端正だ。③きまじめで礼儀正しい。堅苦しい。④親密だ。誠実だ。しっくりしている。⑤色鮮やかだ。⑥まちがいない。正しい。本物である。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意
(注)しくしく(と・に)【頻く頻く(と・に)】副詞:うち続いて。しきりに。(学研)
大伴家持は、天平十九年(747年)越中で初めて迎えた新春に、寒さがこたえ、二月下旬から病に臥せった。この時に、家持は病床から悲しみの長歌や短歌を書簡に添えて、池主に贈ったのである。二月二十日から三月五日のいたるまで、病床に伏した家持にとって幼馴染の池主の励ましはどんなに心強いものであったことだろう。
三九七三(長歌)と三七九四、三七九五歌(短歌)の歌群の前には、「書簡」が収録されている。書簡ならびに三九七三歌、三九七五歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その702)」で紹介している。
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大伴池主について検索してみると、「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版には、次のように書かれている。「奈良時代の歌人。生没年不詳。746年(天平18)ころ越中掾(じよう)として大伴家持の配下にあり,家持との間に交わした多くの贈答歌を《万葉集》にとどめるが,大伴一族とあるのみで系譜は不明。のち越前掾に転じ,さらに中央官として都にかえった。757年(天平宝字1)橘奈良麻呂の変に加わって投獄され,その後は不明。(後略)」
家持は、四〇〇六(長歌)、四〇〇七歌を作り池主に贈っている。池主とは、「かき数(かぞ)ふ 二上山(ふたがみやま)に 神(かむ)さびて 立てる栂(つが)の木 本(もと)も枝(え)も 同(おや)じときはに」(本も枝も、とは家持と池主をさす)と詠うほど信頼関係が強かったのである。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その835)」で紹介している。
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池主の歌を少しみてみよう。
■天平十年の「橘奈良麻呂の宴」の歌は、題詞「橘朝臣奈良麻呂、集宴を結ぶ歌十一首」の中の歌である。
◆十月 鍾礼尓相有 黄葉乃 吹者将落 風之随
(大伴池主 巻八 一五九〇)
≪書き下し≫十月(かむなづき)しぐれにあへる黄葉の吹かば散りなむ風のまにまに
(訳)十月のしぐれに出逢って色づいたもみじ、これと同じ山のもみじの葉は、風が吹いたら散ってしまうことであろう。その風の吹くままに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
左注は、「右一首大伴宿祢池主」<右の一首は大伴宿禰池主(いけぬし)>である。
この「橘朝臣奈良麻呂、集宴を結ぶ歌十一首」については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その939)」で紹介している。
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■天平十八年(746年)、題詞「八月七日の夜に、守(かみ)大伴宿禰家持が館(たち)に集(つど)ひて宴(うたげ)する歌」十三首の中の三首である。
◆乎美奈敝之 左伎多流野邊乎 由伎米具利 吉美乎念出 多母登保里伎奴
(大伴池主 巻十七 三九四四)
≪書き下し≫をみなへし咲きたる野辺(のへ)を行き廻(めぐ)り君を思ひ出(で)た廻(もとほ)り来(き)ぬ
(訳)女郎花の咲き乱れている野辺、その野辺を行きめぐっているうちに、あなたを思い出して廻り道をして来てしまいました。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)たもとほる【徘徊る】自動詞:行ったり来たりする。歩き回る。 ※「た」は接頭語。上代語。(学研)
◆安吉能欲波 阿加登吉左牟之 思路多倍乃 妹之衣袖 伎牟餘之母我毛
(大伴池主 巻十七 三九四五)
≪書き下し≫秋の夜(よ)は暁(あかとき)寒し白栲(しろたへ)の妹(いも)が衣手(ころもで)着むよしもがも
(訳)秋の夜は明け方がとくに寒い。いとしいあの子の着物の袖(そで)、その袖を重ねて着て寝る手立てがあればよいのに。(同上)
◆保登等藝須 奈伎氐須疑尓之 乎加備可良 秋風吹奴 余之母安良奈久尓
(大伴池主 巻十七 三九四六)
≪書き下し≫ほととぎす鳴きて過ぎにし岡(をか)びから秋風吹きぬよしもあらなくに
(訳)時鳥が鳴き声だけ残して飛び去ってしまった岡のあたりから、秋風が寒々と吹いてくる。あの子の袖を重ねる手だてもありはしないのに。(同上)
(注)をかび【岡傍】名詞:「をかべ」に同じ。 ※「び」は接尾語。(学研)
(注)よし【由】名詞:手段。方法。手だて。(学研)
左注は、「右三首掾大伴宿祢池主作」<右の三首は、掾(じよう)大伴宿禰池主作る>である。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その844)」で紹介している。
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家持の「布勢(ふせ)の水海(みづうみ)の賦」(三九九三歌)に対し、池主は、題詞「敬(つつ)しみて布勢の水海に遊覧する賦に和(こた)ふる一首 幷せて一絶」を、「立山の賦」(四〇〇〇歌」に対し、池主は、題詞「敬(つつ)しみて立山の賦に和(こた)ふる一首 幷せて二絶」(四〇〇四から四〇〇五歌)を贈っている。
(注)ぜつ【絶】〘名〙 短歌のこと。長歌を中国風に「賦(ふ)」というのに対する。また、接尾語的に、短歌を数えるのに用いる。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
家持は、天平勝宝三年(751年)に少納言に任ぜられ「しなざかる」越中生活に終わりをつげ都にもどるのである。しかし、光明皇太后、孝謙天皇、藤原仲麻呂の勢力が台頭し、大伴一族がよりどころにしていた聖武天皇ならびに橘諸兄に権勢はそがれていくのである。光明皇太后は藤原不比等の娘で、孝謙天皇は不比等の孫にあたる。仲麻呂も不比等の孫であるので藤原氏が権力を握って来るのである。
天平勝宝八年(756年)橘諸兄が失脚、聖武上皇がなくなるとすぐに、大伴一族の大伴古慈悲が謀反のかどで捕えられるという事態になってしまう。そこで、氏の上(かみ)の家持が「喩族歌一首并短歌」<族(うがら)を喩(さと)す歌一首并(あは)せて短歌>を詠み、反仲麻呂に立ち上がらないようにとの意思表明を行ったのである。
家持と池主は、政治路線の相違から袂を分かつのである。
橘諸兄の長子奈良麻呂は、大伴氏や佐伯氏等にはかり、仲麻呂打倒の計画をたてていたが、密告され、大伴氏や佐伯氏ら加担したものは根こそぎ葬られたのである。しかし家持は、圏外にあって身を守ったのである。
池主が家持と政治路線の相違から袂を分かつと書いたが、藤井一二氏は、その著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」(中公新書)の中で、「池主は、幼少期を含め生涯を通じて家持と集いを共にする機会も多く、その性格と歌作の才を最も評価しうる立場にあった。家持の苦悩する人間関係とともに、自らの歌作に留まらず大伴氏を中心とする一大歌集の編纂に向けて情熱を傾注する家持を目の当たりにし、池主自身が家持を政局に巻き込まない方向でそこから離れる道を選んだのだと推察する。」と書かれている。なぜかもやもや感が拭い去られる気持ちになる文言である。
家持の「喩族歌一首并短歌」<族(うがら)を喩(さと)す歌一首并(あは)せて短歌>については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その297)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」