●歌は、「ひともねのうらぶれ居るに竜田山御馬近づかば忘らしなむか」である。
●歌をみていこう。
◆比等母祢能 宇良夫禮遠留尓 多都多夜麻 美麻知可豆加婆 和周良志奈牟迦
(山上憶良 巻五 八七七)
≪書き下し≫ひともねのうらぶれ居(を)るに竜田山(たつたやま)御馬(みま)近(ちか)づかば忘らしなむか
(訳)周りの者が皆あなたの旅立ちにうちしおれているのに、竜田山にお馬が近づく頃には、一同のことなどお忘れになってしまうのではありますまいか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)ひともね:「人皆」の方言か
(注)うらぶる 自動詞:わびしく思う。悲しみに沈む。しょんぼりする。 ※「うら」は心の意。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)たつたやま【竜田山/立田山】:奈良県北西部、三郷(さんごう)町と大阪府柏原市との間の山地の古名。大和から河内へ行く「竜田越え」の山。(weblio辞書 デジタル大辞泉)西を旅する人の帰郷のめどとされた。
題詞は、「書殿餞酒日倭歌四首」<書殿にして餞酒(せんしゅ)する日の倭歌(やまとうた)四首>である。
(注)書殿:図書・文書を置く座敷。ここは、筑前国守山上憶良公館の部屋であろう。(大宰府または帥大伴旅人邸の書殿と見る説もある。)
(注)餞酒:旅人送別の宴の意。天平二年十二月、旅人は大納言となり帰京。
(注)倭歌:(筑紫歌壇であるので)漢詩でなく日本の歌であることを強調。
他の三首もみてみよう。
◆阿麻等夫夜 等利尓母賀母夜 美夜故麻提 意久利摩遠志弖 等比可弊流母能
(山上憶良 巻八 八七六)
≪書き下し≫天飛(あまと)ぶや鳥にもがもや都まで送りまをして飛び帰るもの
(訳)空を飛ぶ鳥ででもありたいものだ。そしたら、都まであなたをお送り申し上げて、飛んで帰ることができるのに。(同上)
(注)あまとぶや【天飛ぶや】分類枕詞:①空を飛ぶ意から、「鳥」「雁(かり)」にかかる。」②「雁(かり)」と似た音の地名「軽(かる)」にかかる。③空を軽く飛ぶといわれる「領巾(ひれ)」にかかる。(学研)
(注)もがもや 分類連語:…だといいなあ。…であったらなあ。 ※上代語。 ⇒なりたち 願望の終助詞「もがも」+詠嘆の間投助詞「や」(学研)
(注)まをす【申す・白す】補助動詞:〔動詞の連用形に付いて〕…申し上げる。▽謙譲の意を表す。(学研)
◆伊比都ゝ母 能知許曽斯良米 等乃斯久母 佐夫志計米夜母 吉美伊麻佐受斯弖
(山上憶良 巻八 八七八)
≪書き下し≫言ひつつも後(のち)こそ知らめとのしくも寂(さぶ)しけめやも君いまさずして
(訳)お別れのさびしさを今は何やかやと申してはいるものの、あとになってほんとうに思い知らされるのでしょう。ちっとやそっとのさびしさではありますまい。あなたがいらっしゃらなくなったら。(同上)
(注)とのしくも:「乏(とも)しくも」の方言か。
(注)めやも 分類連語:…だろうか、いや…ではないなあ。 ⇒なりたち 推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」+終助詞「も」(学研)
(注)います【坐す・在す】自動詞:いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。(学研)
◆余呂豆余尓 伊麻志多麻比提 阿米能志多 麻乎志多麻波祢 美加度佐良受弖
(山上憶良 巻八 八七九)
≪書き下し≫万代(よろづよ)にいましたまひて天(あめ)の下(した)奏(まを)したまはね朝廷(みかど)去らずて
(訳)いついつまでも長寿をお保ちになって、天下の政事(まつりごと)をお執(と)り下さい。朝廷(みかど)を去られることなしに。(同上)
4月21日三郷町から仁徳天皇陵の万葉歌碑を巡る計画をたてる。
前回、三郷町の歌碑巡りをした時、大伴家持の歌碑をスルーしたので計画に織り込もうと、検索していると、奈良テレビがYouTubeにアップロードした「三郷町信貴山下駅前に『龍田古道』ゆかりの万葉歌碑設置」のタイトルが目に飛び込んできた。
三月に除幕式を行ったばかりでる。
信貴山山下駅前のロータリーを中心にストリートビューを使って丹念に探すが見つからない。このゾーン以外で「駅前」に該当するであろう所を重点的に探せば良いと検討をつけておいた。
歌碑は、駅改札を出た左手に、ケーブルカーのモミュメントがある。その裏手一段下の広場にあった。
歌碑に向かって左手に、歌の解説案内板が、右手に「日本遺産認定記念」のプレートと、揮毫者の名前などのプレートが設置されていたのである。
マスコミの紹介記事も、歌の解説案内板も「山上憶良」と明記されている。しかし、原文の歌群をみても、作者名がない。続いて収録されている八八〇から八八二歌群は、題詞が「敢(あ)へて私懐(しかい)を布(の)ぶる歌三首」、左注が「天平二年十二月六日 筑前国司山上憶良 謹上」とあるので、憶良の歌であることは明確である。
八七六から八七九歌の歌群の前八七四,八七五歌の脚注に、伊藤 博氏は「以下、八八二まで、作者は憶良らしい。」と書かれている。
山上憶良は、巻十六 八三六〇から八三六九歌の「筑前国志賀白水郎(しかのあま)歌十首」のように、「人の気持ちになり代わって作る歌」(「万葉の人びと 犬養 孝 著 新潮文庫」が多いことを踏まえると、旅人を送る大宰の人たちの気持ちに代わって、方言も配して詠ったとも考えられるのである。
旅人は大納言になって都に戻るのである。その送別の宴である。八七六歌では、鳥であれば、都までずっとお見送りできるのにと旅人をくすぐるようなに、八七七歌では、「竜田山(たつたやま)御馬(みま)近(ちか)づかば忘らしなむか」とちょっと茶目っ気を出して旅人にからかいを出している。八七八歌では、「君いまさずして」とさらに八七九歌では、「万代に・・・天の下奏したまはね」と敬意を込めつつも目線的には同等に近いレベルで詠っているほど旅人が心を許しているとなると憶良しか考えられないのである。
歌の世界で、「筑紫歌壇」の中核にいる旅人と憶良ならではの送別の歌と読み取れる。そこを通してそれぞれの歩んできた人生を見ることができるような気がする。ひとつのドラマである。
昨年、太宰府を中心とした歌碑巡りを行ったが、時間の都合で志賀島の歌碑を巡ることができなかった。機会を見つけて、十首を現地で味わってみたいものである。
上述の、題詞「敢(あ)へて私懐(しかい)を布(の)ぶる歌三首」(八八〇から八八二歌)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その902)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「万葉集講義 最古の歌集の素顔」 上野 誠 著 (中公新書)
★「三郷町信貴山下駅前に『龍田古道』ゆかりの万葉歌碑設置」 (奈良テレビ)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「三郷町HP」