万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1038)―大阪府堺市大仙町 仁徳陵西側遊歩道(5)―万葉集 巻二 八九

●歌は、「居明かして君をば待たむぬばたまの我が黒髪に霜は降るとも」である。

 

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大阪府堺市大仙町 仁徳陵西側遊歩道(5)万葉歌碑(作者未詳 古歌集)

●歌碑は、大阪府堺市大仙町 仁徳陵西側遊歩道(5)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆居明而 君乎者将待 奴婆珠能 吾黒髪尓 霜者零騰文

                (古歌集 巻二 八九)

 

≪書き下し≫居(ゐ)明(あ)かして君をば待たむぬばたまの我(わ)が黒髪に霜は降るとも

 

(訳)このまま佇(たたず)みつづけて我が君のお出(いで)を待とう。この私の黒髪に霜は白々と降りつづけようとも。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ゐあかす【居明かす】他動詞:起きたまま夜を明かす。徹夜する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ぬばたまの【射干玉の・野干玉の】分類枕詞:①「ぬばたま」の実が黒いところから、「黒し」「黒髪」など黒いものにかかり、さらに、「黒」の連想から「髪」「夜(よ)・(よる)」などにかかる。②「夜」の連想から「月」「夢」にかかる。(学研)

 

 題詞は、「或本歌日」<或本の歌に日(い)はく>である。

 

 左注は、「右一首古歌集中出」<右の一首は、古歌集の中(うち)に出づ>である。

(注)古歌集とは、万葉集の編纂に供された資料を意味する。

 

 

 古事記、日本書記には、磐姫皇后が宮廷祭祀のための御綱葉(みつなかしは)を紀伊の国に採取に行っている時に、仁徳天皇が八田皇女(やたのひめみこ)を宮中に納(めしい)れたことに嫉妬心から激怒、山城の筒城(つつき)の宮に引きこもり訪ねて来た天皇にも逢わず、そこで生涯をとじたと書かれている。(「磐之媛命陵古墳」は、奈良市佐紀町にある。)

(注)筒城(つつき)の宮:今の京田辺市あたりか。(つつき:隣接する井出町の住所は京都府綴喜郡井手町である。)

 

 記紀では、磐姫皇后は、嫉妬深いが故、当時はある意味ヒロインとして話の種になっており、女の嫉妬は、しばしば男の偉大性を示す素材であったと考えられている。しかるに、万葉集では、同じ磐姫皇后とは思えないほど仁徳天皇へのひたむきな愛を貫く女性に変身しているのである。

 このことに関して、伊藤 博氏は、その著「萬葉集相聞の世界」(塙書房)の中で、「なぜか。我々は。このはっきりした相違のなかにこそ、筒城の宮で一人悶々のうちに薨じたとされる劇的人物磐姫に興味を持った誰かが、記紀の皇后とはまったく別の、あるいは、記紀の皇后の持っていて表面には出さなかった反面の磐姫を造型し、それを人々に語りきかせようとして、この四首を仮託したものであろうことを、はっきりと感じとることができるのである。」と書いておられる。 (注)この四首とは、八五から八八歌をさす。

 八五から八八歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1037)」で紹介している。

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 「磐姫皇后思天皇御作歌」として八五から八九歌の歌碑が仁徳天皇陵西側遊歩道に、陵に背を向けて建てられていることは、古事記や日本書記の「嫉妬」も踏まえ、皇后の「深い愛」として歌物語的に仕上げて行ったと思われる万葉集のその時代の思いも汲んでのことであろう。

 

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仁徳天皇陵歌碑群

 

 八五歌の類歌として、古事記では衣通王の歌とされる九〇歌が収録されている。こちらもみてみよう。

 

◆君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待  此云山多豆者是今造木者也

                (衣通王 巻二 九〇)

 

≪書き下し≫君が行き日(け)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つにはまたじ  ここに山たづといふは、今の造木をいふ

 

(訳)あの方のお出ましは随分日数が経ったのにまだお帰りにならない。にわとこの神迎えではないが、お迎えに行こう。このままお待ちするにはとても堪えられない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)やまたづの【山たづの】分類枕詞:「やまたづ」は、にわとこの古名。にわとこの枝や葉が向き合っているところから「むかふ」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)みやつこぎ【造木】: ニワトコの古名。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

 

 題詞は、「古事記曰 軽太子奸軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王不堪戀慕而追徃時謌曰」<古事記に曰はく 軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女(かるのおほいらつめ)に奸(たは)く。この故(ゆゑ)にその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおほきみ)、恋慕(しの)ひ堪(あ)へずして追ひ徃(ゆ)く時に、歌ひて曰はく>である。

(注)軽太子:十九代允恭天皇の子、木梨軽太子。

(注)軽太郎女:軽太子の同母妹。当時、同母兄妹の結婚は固く禁じられていた。

(注)たはく【戯く】自動詞①ふしだらな行いをする。出典古事記 「軽大郎女(かるのおほいらつめ)にたはけて」②ふざける。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)伊予の湯:今の道後温泉

(注)衣通王:軽太郎女の別名。身の光が衣を通して現れたという。

 

左注は、「右一首歌古事記与類聚歌林所説不同歌主亦異焉 因檢日本紀曰 難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月天皇語皇后納八田皇女将為妃 時皇后不聴 爰天皇歌以乞於皇后云ゝ 卅年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀伊國到熊野岬取其處之御綱葉而還 於是天皇伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中 時皇后到難波濟聞天皇合八田皇女大恨之云ゝ 亦曰 遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春三月甲午朔庚子木梨軽皇子為太子 容姿佳麗見者自感 同母妹軽太娘皇女亦艶妙也云ゝ 遂竊通乃悒懐少息廿四年夏六月御羮汁凝以作氷 天皇異之卜其所由 卜者曰 有内乱 盖親ゝ相奸乎云ゝ 仍移太娘皇女於伊豫者 今案二代二時不見此歌也」<右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と説(い)ふ所同じくあらず、歌の主(ぬし)もまた異(こと)なり。よりて日本紀(にほんぎ)に検(ただ)すに、曰はく、『難波の高津の宮に天の下知らしめす大鷦鷯天皇(おほさぎきのすめらみこと)の二十二年の春の正月に、天皇、皇后(おほきさき)に語りて、八田皇女(やたのひめみこ)を納(めしい)れて妃(きさき)とせむとしたまふ。時に、皇后聴(うけゆる)さず。ここに天皇、歌(みうた)よみして皇后に乞ひたまふ云々(しかしか)。三十年の秋の九月乙卯(きのとう)の朔(つきたち)の乙丑(きのとうし)に、皇后紀伊国(きのくに)に遊行(いで)まして熊野(くまの)の岬(みさき)に到りてその処の御綱葉(みつなかしは)を取りて還(まゐかへ)る。ここに天皇、皇后の在(いま)さぬを伺(うかか)ひて八田皇女(やたのひめみこ)を娶 (め)して宮(おほみや)の中(うち)に納(めしい)れたまふ。時に、皇后難波(なには)の済(わたり)に到りて、天皇の八田皇女を合(め)しつと聞きて大きに恨みたまふ云々』といふ。また曰はく、『遠つ飛鳥の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)の二十三年の春の三月甲午(きのえうま)の朔(つきたち)の庚子(かのえね)に、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を太子(ひつぎのみこ)となす。容姿(かほ)佳麗(きらきら)しく見る者(ひと)おのずから感(め)づ。同母妹(いろも)軽太娘皇女(かるのおほいらつめのひめみこ)もまた艶妙(かほよ)し云々。つひに竊(ひそ)かに通(あ)ふ。すなはち悒懐(いきどほり)少しく息(や)む。二十四年の夏の六月に、御羮(みあつもの)の汁凝(こ)りて氷(ひ)となる。天皇異(あや)しびてその所由(よし)を卜(うら)へしめたまふ。卜者(うらへ)の曰(まを)さく、『内の乱(にだれ)有り。けだしくは親々(はらから)相(どち)奸(たは)けたるか云々』とまをす。よりて、太娘皇女を伊与に移す」といふ。今案(かむが)ふるに、二代二時(ふたとき)にこの歌を見ず。>である。

 

(左注略訳)右の一首の歌は古事記と類聚歌林とでは言わんとすることは同じではなく、また作者も違う。そこで日本書紀を調べてみると、「難波の高津の宮で国を治められている大鷦鷯天皇(おほさぎきのすめらみこと=仁徳天皇)の二十二年の春の正月に、天皇は皇后に、八田皇女(やたのひめみこ=仁徳天皇の異母妹)を妃に迎え入れたいとお話しになった。しかし、皇后は聞く耳をお持ちにならなかった。そこで天皇は歌をお詠みになって皇后に許しを乞われた云々。三十年の秋の九月十一日に、皇后は紀伊の国に遊行され熊野の岬までお行になり、そこの御綱葉(みつながしわ)を取ってお戻りになった。ところが天皇は、皇后の留守をよいことに八田皇女を娶(めと)り、妃にされた。皇后は難波の港に着いた時に、天皇が八田皇女を娶られたと聞いて、大変深くお恨みになった云々」と書かれている。また、

「遠い飛鳥の宮で国を治められている雄朝嬬稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと=允恭天皇)の二十三年の春の三月七日に、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を太子になされた。容姿端麗で、見る者はだれもがひかれた。同母妹の軽太娘皇女(かるのおほいらつめのひめみこ)もまた艶やかであった云々。ついに二人は(禁忌にふれ)ひそかに通じあった。恋の苦しさから少し気分は晴れた。二十四年の夏の六月に、天皇の温かい吸物が固まり氷になった。天皇は不思議に思われ理由を占わされた。占い師は、『同居血縁者の不倫による乱れがある。おそらく同母兄妹のふしだらな行いがあるのでは、云々』と言った。そこで太娘皇女(おほいらつめのひめみこ)を伊予に追放した」という。今、思うに、

日本書紀には、仁徳、允恭両朝のいずれにもこの歌は見当たらない。

(注)おおさざきのみこと【大鷦鷯天皇】:仁徳天皇の名。

(注)八田皇女(やたのひめみこ):仁徳天皇の異母妹。当時は、母の違う兄弟姉妹の結婚は認められた。

(注)きさき【后・妃】: 天皇の配偶者。皇后。中宮。また、女御などで天皇の母となった人。律令制では特に称号の第一とされた。 → 夫人・嬪(ひん)と続く。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)熊野の岬:和歌山県南方の海岸。熊野は古代人にとっては聖地。

(注)みつながしは 御綱葉:ウコギ科の常緑小高木カクレミノの葉ともいうが、未詳。

(注)悒:うれえる

(注)内の乱れ:同居血縁者の不倫。

(注)たはく【戯く】自動詞:①ふしだらな行いをする。②ふざける。(学研)

(注)二代二時にこの歌を見ず:日本書記には、仁徳・允恭両朝のいずれにも八五・九〇のような歌は見当たらない、の意。八五の歌は、磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)の歌で、「君が行き日(け)長くなりぬ山尋(たづ)ね迎へか行かむ待ちにか待たむ」である。

 

御綱葉(みつながしは)については、國學院大學デジタル・ミュージアム「万葉神事語辞典」に次のように書かれている。引用させていただきます。 

 「万葉集では『磐姫皇后、天皇を思ひて作らす歌』(1-85~90)の左注に『皇后、紀伊国に遊行(ゆ)きて、熊野の岬に至り、その処の御綱葉(みつながしは)を取りて還へる』とある。皇后磐姫が紀伊国の出かけたことは、記に『大后(おほきさき)、豊楽(とよのあかり)せむと為(し)て、御綱柏を採りに木国(きのくに)に幸出(いでま)しし間』とあり、紀に、この時期を『秋九月』としている。カシハは、『炊葉』の意であり、食物を盛ったり、覆ったりするのに用いたものであった。例えば、『皇祖の遠き御代御代はい敷折り酒飮むといふそこのほほがしは』(19-4205)のように、葉を折って酒器として用いたホホガシハ(もくれん科)のような例もある。当該のミツナガシハは、その採取の時期が秋であることや、皇后自らこれを採るために紀伊国まで出かけている樣子などを考えると、新嘗祭の神饌を盛る器として用いられるためのものであったと考えられよう。」

 

 

 和歌山県和歌浦玉津島神社の祭神が衣通姫である。これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その734)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「萬葉集相聞の世界」 伊藤 博 著 (塙書房

★「万葉神事語辞典」 (國學院大學デジタル・ミュージアム

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」