万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1041)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(1)―万葉集 巻二 一一一

●歌は、「いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く」である。

 

f:id:tom101010:20210524135858j:plain

春日大社神苑萬葉植物園万葉歌碑<プレート>(弓削皇子

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 鳴嚌遊久

                (弓削皇子 巻二 一一一)

 

≪書き下し≫いにしへに恋ふらむ鳥かも弓絃葉(ゆずるは)の御井(みゐ)の上(うへ)より鳴き渡り行く

 

(訳)古(いにしえ)に恋い焦がれる鳥なのでありましょうか、鳥が弓絃葉の御井(みい)の上を鳴きながら大和の方へ飛び渡って行きます。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)こふ【恋ふ】他動詞:心が引かれる。慕い思う。なつかしく思う。(異性を)恋い慕う。恋する。 ⇒注意 「恋ふ」対象は人だけでなく、物や場所・時の場合もある。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)弓絃葉の御井:吉野離宮の清泉の通称か。

 

 題詞は、「幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首」<吉野の宮に幸(いでま)す時に、弓削皇子(ゆげのみこ)の額田王(ぬかたのおほきみ)に贈与(おく)る歌一首>である。

(注)吉野の宮に幸(いでま)す時藤原遷都(持統八年 694年)以前の行幸らしい。

 

 弓削皇子持統天皇吉野行幸の際、のため行幸に参加できなかった額田王のことを思い出されて作られた歌である。

 

この弓削皇子に対して額田王が和(こた)えられた歌が一一二歌である。こちらもみてみよう。

 

 題詞は、「額田王奉和歌一首 従倭京進入」額田王、和(こた)へ奉る歌一首 倭の京より進(たてまつ)り入る>である。

 

◆古尓 戀流鳥者 霍公鳥 蓋哉鳴之 吾念流碁騰

                (額田王 巻二 一一二)

 

≪書き下し≫いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我(あ)が思(も)へるごと

 

(訳)古に恋い焦がれて飛び渡るというその鳥はほととぎすなのですね。その鳥はひょっとしたら鳴いていたかもしれませんね。私が去(い)にし方(かた)を一途に思いつづけているように。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎす:時鳥を懐古の悲鳥とみる中国の故事によっている。同じような孤愁に暮れているのではと謎をかけたもの。

(注)けだし【蓋し】副詞:①〔下に疑問の語を伴って〕ひょっとすると。あるいは。②〔下に仮定の表現を伴って〕もしかして。万一。③おおかた。多分。大体。(学研)

 

 

 一一一、一一二歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その110改)」で紹介している。

 ➡

tom101010.hatenablog.com

 

 

さらに一一三歌もみてみよう。

 題詞は、「従吉野折取蘿生松柯遣時額田王奉入歌一首」<吉野より蘿生(こけむ)す松が枝(え)を折り取りて遣(おく)る時に、額田王が奉(たてまつ)り入るる歌一首>である。

(注)蘿:古木に糸くず状に垂れ下がるサルオガセ。

(注)遣(おく)る:弓削皇子が枝に文を結んで送ったことをいう。

 

◆三吉野乃 玉松之枝者 波思吉香聞 君之御言乎 持而加欲波久

               (額田王 巻二 一一三)

 

≪書き下し≫み吉野の玉松が枝(え)ははしきかも君が御言(みこと)を持ちて通(かよ)はく

 

(訳)み吉野の玉松の枝はまあ何といとしいこと。あなたのお言葉を持って通ってくるとは。(同上)

(注)はし【愛し】[形]:いとしい。愛すべきである。かわいらし(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)通はく:「通ふ」のク語法。

 

弓削皇子に関しては、コトバンク 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)に次のように書かれている。

 「没年:文武三年七月二十一日(699年)生年:生年不詳

七世紀後半の皇族。天武天皇天智天皇の娘大江皇女の子。第六皇子。同母弟に長皇子。『懐風藻』所収の葛野王伝によれば、天武天皇の第一皇子高市皇子の死(696年)後、弓削皇子は皇太子を選ぶ群臣会議で兄弟による皇位継承を主張したが、兄弟による継承は乱の原因になると主張し、草壁皇子(母がのちの持統天皇)の子軽皇子による継承を支持する葛野王らに敗れた。軽皇子はのちの文武天皇。(増渕徹)」

弓削皇子は、持統治政下不遇であった。

 

 弓削皇子と歌の贈答を行った額田王天武天皇とのあいだに十市皇女をもうけている。皇女は、天智天皇と伊賀采女宅子娘の間にできた大友皇子に嫁いでいる。その大友皇子は、天智天皇の没後,壬申の乱大海人皇子(後の天武天皇)と皇位を争い敗れている。

 

 吉野町HP「壬申の乱と吉野」の「吉野の盟約」の項に「天武天皇8(679)年、天武天皇は皇后の鵜野讃良(うのささら;後の持統天皇)と6人の皇子とともに吉野宮へ行幸します。吉野宮の庭で、天皇・皇后・皇子は『私達には10人余りの皇子がいて、皆母親は異なるけれども、天皇の勅にしたがってお互い助け合おう』と誓い合ったのです。(後略)」とある。

 盟約ということは、天武天皇と鵜野皇后(後の持統天皇)の皇子である草壁皇子を中心に「助け合おう」と誓わせる必要があったと考えられる。2年後草壁皇子は皇太子になっている。しかし、常に健康状態がすぐれないという不安を抱えていたのである。

 

 そういったなか、才能、人望等において大津皇子草壁皇子を上回っているのである。鵜野皇后の胸中やいかにである。686年大津皇子は謀略により刑死となる。いわば「大逆犯人」であるが、皇后は、「罪を憎んで人を憎まず」の立ち位置から、大津皇子二上山に丁寧に葬るのである。

 

 しかし、689年4月皇太子草壁皇子が亡くなるという鵜野皇后にとって予期せぬ事態になってしまうのである。鵜野皇后は、690年正月即位し持統天皇となり、長庶子高市 (たけち) 皇子を太政大臣とした。696年高市皇子が死亡すると,697年2月草壁皇子の子軽皇子が皇太子に、同8月持統天皇の譲位をうけ文武天皇持統天皇太上天皇と称した。直系を意識していることが明らかである。

 

 端的に言えば、皇位継承争いであり、正室(鵜野皇后)と側室の戦いでもあった。鵜野皇后にとって草壁皇子の死は衝撃であり、自ら天皇の座に就き、孫にあたる軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承をと考えたのであろう。高市皇子太政大臣に任じ微妙な力のバランスをとりつつ高市皇子の死後、翌年に草壁皇子の子軽皇子を皇太子に据え半年後には譲位し文武天皇を誕生させ、自らは太上天皇上皇)として権力を維持していくのである。

 

 弓削皇子は、鵜野皇后の、草壁皇子皇位継承させようとする思惑の中、排除された大津皇子の「謀反」を目の当たりにし胸中穏やかならず、一一一から一一三歌にあるように額田王の孤愁に自分の孤愁を重ね心の安らぎを求めたのかもしれない。

 

草壁皇子の子軽皇子(後の文武天皇)による継承に異を唱えた弓削皇子は自分の運命を察したものと思われる。

 

 題詞、「弓削皇子遊吉野時御歌一首」<弓削皇子、吉野に遊(いでま)す時の御歌一首>とある、歌をみてみよう。

 

◆瀧上之 三船乃山尓 居雲乃 常将有等 和我不念久尓

              (弓削皇子 巻三 二四二)

 

≪書き下し≫滝の上の三船(みふね)の山に居(ゐ)る雲の常にあらむと我(わ)が思(おも)はなくに

 

(訳)吉野川の激流の上の三船の山にいつもかかっている雲のように、いつまでも生きられるようなどとは、私は思ってもいないのだが。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

二四二歌は、忍び寄る「死」を暗示しているような歌である。

 

弓削皇子額田王の歌の贈答は、「歌物語」であるとする説もある。「歌物語」であるにせよ、歴史的な事柄を「歌物語」として伝えていこうとする試みがなされているのである。 

「歌物語」として、ある意味反体制派的な歌を大々的に収録している背景には、「読者」としての今でいう「判官びいき」を意識した面もあるのだろう。

こういったところにも、万葉集万葉集たる所以があるように思えるのである。

 

 持統天皇の統治下不遇であったとされる弓削皇子の歴史に翻弄される背景等については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その200改)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

f:id:tom101010:20210524142525j:plain

春日大社神苑萬葉植物園東門

 今回から春日大社神苑萬葉植物園万葉歌碑シリーズである。

 春日大社萬葉植物園が4月24日(土)から再開園されたとの記事が目に飛び込んできた。待ち望んでいた再開園である。

コロナ禍で外出がままならないので、歌碑の写真のストックが尽きて来る。

萬葉植物園には、万葉植物とともにそれにちなんだ陶器製のプレートの歌碑が多数ある。万葉植物にちなんだ歌なので、もちろんこれまでに紹介してきた歌との重複は覚悟のうえである。

 

 4月27日(火)早速出かける。平日であるが、受付前に結構人の列ができている。

検温を受け、入園料を払い園内に。列の意味が分かった。藤の季節なのである。藤のまわりには、写真を撮る人がやや群がっているような状況であったが、万葉歌碑(プレート)にシャッターを切っている人はいなかった。

f:id:tom101010:20210524141708j:plain

植物園の藤


 

 約300種類の万葉植物を植栽する日本最古の植物園だけに、整備は行き届いており、歌碑(プレート)の数も半端ではない。また万葉植物についての解説も丁寧であり、至れりつくせりである。(戻ってから写真を整理してみたら約150基であった。)

プレートの写真を撮るために、前屈みになったり、しゃがみこんだりと屈伸運動の連続であった。運動不足と歌碑の写真の在庫不足を補うには一石二鳥であった。

 

f:id:tom101010:20210524142224j:plain

植物園万葉歌碑<プレート>

コロナワクチン接種もようやく始まった。なんとか早くコロナが収束して、あちこち足を伸ばして万葉歌碑巡りをしたいものである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「大津皇子」 生方たつゑ 著 (角川選書

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「吉野の盟約」(吉野町HP)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)」