万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1042)―春日大社神苑萬葉植物園(2)―万葉集 巻 二 二一七

●歌は、「秋山のしたえる妹なよ竹のとをよる子らはいかさまに思ひ居れるか・・・」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(2)万葉歌碑<プレート>向かって左側(柿本人麻呂



●歌碑(プレート)は、春日大社神苑萬葉植物園(2)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

題詞は、「吉備津采女死時柿本朝臣人麻呂作歌一首幷短歌」<吉備津采女(きびつのうねめ)が死にし時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首并(あは)せて短歌>である。

(注)吉備津采女:吉備の国(岡山県)の津の郡出身の采女

(注の注)うねめ【采女】:宮中の女官の一。天皇・皇后の側近に仕え、日常の雑事に従った者。律令制以前からあったとみられるが、律令制では諸国の郡司一族の子女のうちから容姿端麗な者を出仕させて、宮内省采女司(うねめのつかさ)が管理した。名目的には江戸時代まで存続した。(コトバンク デジタル大辞泉

 

◆秋山 下部留妹 奈用竹乃 騰遠依子等者 何方尓 念居可 栲紲之 長命乎 露己曽婆 朝尓置而 夕者 消等言 霧己曽婆 夕立而 明者 失等言 梓弓 音聞吾母髣髴見之 事悔敷乎 布栲乃 手枕纏而 釼刀 身二副寐價牟 若草 其嬬子者 不怜弥可 念而寐良武 悔弥可 念戀良武 時不在 過去子等我 朝露乃如也 夕霧乃如也

                (柿本人麻呂 巻二 二一七)

 

≪書き下し≫秋山の したへる妹(いも) なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひ居(を)れか 栲縄(たくなは)の 長き命(いのち)を 露こそは 朝(あした)に置きて 夕(ゆうへ)は 消(き)ゆといへ 霧こそは 夕に立ちて 朝は 失すといへ 梓弓(あづさゆみ) 音(おと)聞く我(わ)れも おほに見し こと悔(くや)しきを 敷栲(しきたへ)の 手枕(たまくら)まきて 剣太刀(つるぎたち) 身に添(そ)へ寝(ね)けむ 若草の その夫(つま)の子は 寂(さぶ)しみか 思ひて寝(ね)らむ 悔(くや)しみか 思ひ恋ふらむ 時にあらず 過ぎにし子らが 朝露(あさつゆ)のごと 夕霧(ゆふぎり)のごと

 

(訳)秋山のように美しく照り映えるおとめ、なよ竹のようにたよやかなあの子は、どのように思ってか、栲縄(たくなは)のように長かるべき命であるのに、露なら朝(あさ)置いて夕(ゆうべ)には消えるというが、霧なら夕に立って朝にはなくなるというが、そんな露や霧でもないのにはかなく世を去ったという、その噂を聞く私でさえも、おとめを生前ぼんやりと見過ごしていたことが残念でたまらないのに・・・。まして、敷栲(しきたへ)の手枕を交わし身に添えて寝たであろうその夫だった人は、どんなに寂しく思って一人寝をかこっていることであろうか。どんなに心残りに恋い焦がれていることであろうか。思いもかけぬ時に逝(い)ってしまったおとめの、何とまあ、朝霧のようにも夕霧のようにもあることか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)あきやまの【秋山の】分類枕詞:秋の山が美しく紅葉することから「したふ(=赤く色づく)」「色なつかし」にかかる(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)なよたけの【弱竹の】分類枕詞:①細いしなやかな若竹がたわみやすいところから、「とをよる(=しんなりとたわみ寄る)」にかかる。②しなやかな竹の節(よ)(=ふし)の意で、「よ」と同音の「夜」「世」などにかかる。 ※「なよだけの」「なゆたけの」とも。(学研)

(注)とをよる【撓寄る】自動詞:しなやかにたわむ。(学研)

(注)たくなはの【栲縄の】分類枕詞:「栲縄(たくなは)」は長いところから、「長し」「千尋ちひろ)」にかかる。(学研)

(注)あづさゆみ【梓弓】分類枕詞:①弓を引き、矢を射るときの動作・状態から「ひく」「はる」「い」「いる」にかかる。②射ると音が出るところから「音」にかかる。③弓の部分の名から「すゑ」「つる」にかかる。(学研)

(注)おとにきく【音に聞く】分類連語:①うわさに聞く。②有名だ。評判が高い。(学研)

(注)おほなり【凡なり】形容動詞:①いい加減だ。おろそかだ。②ひととおりだ。平凡だ。(学研)

(注の注)伊藤博氏は、脚注の中で、「おほなり」について、「ぼんやりとと訳され、この語は、一首の重要な素材の「霧」の属姓である」と書かれている。

(注)夫:主人公の夫をさす。采女は臣下との結婚は禁じられていた。

(注)時にあらず過ぎにし子:その時でもないのに思いがけず逝ってしまった子→自殺したことが暗示されている。

 

 短歌二首もみてみよう。

 

◆樂浪之 志賀津子等何 <一云 志賀乃津之子我> 罷道之 川瀬道 見者不怜毛

               (柿本人麻呂 巻二 二一八)

 

≪書き下し≫楽浪(ささなみ)の志賀津(しがつ)の子らが <一には「志賀の津の子が」といふ> 罷(まら)り道(ぢ)の川瀬(かはせ)の道(みち)を見れば寂(さぶ)しも

 

(訳)楽浪の志賀津の采女(うねめ)が<志賀の津の采女が>、ひっそりとこの世を去って行った道、その川瀬の道を見ると、まことにら寂しい。(同上)

(注)上二句は過去の近江朝の宮女の事件をいう。持統朝の吉備津の采女の事件と重ね合わせたもの

(注)まかりぢ【罷り路・罷り道】名詞:死者の行く冥土(めいど)への道。(学研)

 

◆天數 凡津子之 相日 於保尓見敷者 今叙悔

              (柿本人麻呂 巻二 二一九)

 

≪書き下し≫そら数(かぞ)ふ大津(おほつ)の子が逢ひし日におほに見しくは今ぞ悔(くや)しき

 

(訳)空で数えると凡(おおよ)そというではないが、その大津の采女に出逢ったあの頃、ぼんやりと対していたのは、今にして思えば何とも残念でたまらない。(同上)

(注)そらかぞふ【空数ふ】分類枕詞:地名の「大津(おほつ)」「大坂(おほさか)」など語頭に「大(おほ)」を持つ語にかかる。語義・かかる理由未詳。(学研)

 

 二一九歌からみると、柿本人麻呂は大津の宮で見聞きしたことを強調しているのである。

 

 

采女」に関しては、「万葉神事語辞典」(國學院大學デジタルミュージアム)に次のように詳細な記述がなされているので引用させていただきます。

「『養老令』によると、采女とは地方豪族の13歳以上30歳以下の娘たちのなかから容姿端麗な者が選ばれ、宮廷で天皇の給仕などにあたった女官である。記紀では雄略天皇条あたりからたくさんの記事が見えることから、5世紀後半あたりから制度として整備されたと考えられる。紀には、童女君という采女雄略天皇とのあいだに春日大娘皇女を産んで妃になった例や、天智天皇とのあいだに大友皇子を産んだ伊賀采女宅子娘の例などが記載されていることから、たんに女官として仕えるだけに終わらず、天皇の妻ともなり得る立場であったようである。また、万葉集には藤原鎌足采女の安見児を娶った喜びを詠んだ歌(2-95)があることから、天皇が許せば采女も臣下の妻となる場合もあったようだが、原則的に采女と通ずることは罪であったようで、因幡の八上采女を娶り不敬罪となった安貴王の例が万葉集には見える(4-534~535)。陸奥に派遣された葛城王の怒りを静めた采女(16-3807)の例や、万葉集に歌が残されている駿河采女(4-507、8-1420)と宴席の場でその歌が披露された豊島采女(6-1026~1027)の例から考えると、給仕などのために宮廷に仕えていただけでなく、宴席で歌を詠んだり古歌を誦詠したりすることもあったようである。このような采女がうたわれた例が万葉集に1首だけある(1-51)。飛鳥から藤原京に遷都された後に志貴皇子が詠んだ歌で、「采女の袖吹き返す明日香風」とうたうことで、風にひるがえった采女の袖を幻視しながら遷都後のむなしさをうまく表現した歌である。(執筆者     新谷秀夫氏)」

 

藤原鎌足が安見児を娶った喜びの歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その112改)」で紹介している。

➡ こちら112改

 

 志貴皇子の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その155改)で紹介している。

 ➡ こちら

tom101010.hatenablog.com

 

 吉備津采女、志賀津采女とは関係はないが、奈良の猿沢の池の辺に「采女神社」がある。

奈良市観光協会のHPに同神社に関して、「猿沢池のほとりにある、春日大社末社。昔、帝の寵愛が薄れたことを嘆き悲しんだ采女猿沢池に身を投げたため、その霊をなぐさめるために建てられたという伝説が残されています。」と書かれている。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉神事語辞典」 (國學院大學デジタルミュージアム

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「奈良市観光協会HP」