●歌は、「橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木」である。
●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(4)にある。
●歌をみていこう。
◆橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝尓霜雖降 益常葉之樹
(聖武天皇 巻六 一〇〇九)
≪書き下し≫橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の樹
(訳)橘の木は、実も花もめでたく、そしてその葉さえ、冬、枝に霜が降っても、ますます栄えるめでたい木であるぞ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)いや常葉の木:いよいよ茂り栄える常緑の樹。(伊藤脚注)
題詞は、「冬十一月左大辨葛城王等賜姓橘氏之時御製歌一首」<冬の十一月に、左大弁(さだいべん)葛城王等(かづらきのおほきみたち)、姓橘の氏(たちばなのうぢ)を賜はる時の御製歌一首>である。
この歌については、直近ではブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その966)」で紹介している。
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橘諸兄の子、橘奈良麻呂が、次代を担うものとして詔(みことのり)に応じた歌が続いて収録されている。こちらもみてみよう。
(注)この時の奈良麻呂は、一五,六歳。
題詞は、「橘宿祢奈良麻呂應詔歌一首」<橘宿禰奈良麻呂(たちばなのすくねならまろ)詔(みことのり)に応(こた)ふる歌一首>である。
◆奥山之 真木葉凌 零雪乃 零者雖益 地尓落目八方
(橘奈良麻呂 巻六 一〇一〇)
≪書き下し≫奥山(おくやま)の真木(まき)の葉しのぎ降る雪の降りは増すとも地(つち)に落ちめやも
(訳)奥山の真木の葉を押し伏せて降り積もる雪がどんなに降り増そうとも、そしてどんなに年が古り行こうとも、橘の実が地に落ちることなどありましょうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)降り増そうの「降り」には「古り」を懸けている。
(注)地に落ちめやも:主語は、橘の実
(注)めやも 分類連語:…だろうか、いや…ではないなあ。 ⇒なりたち 推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」+終助詞「も」(学研)
「地に落ちめやも」と詠っているが、「橘奈良麻呂の変」について少しみてみよう。
「橘奈良麻呂の変」とは、天平勝宝九年(757年)七月,藤原氏の勢力に反発する橘奈良麻呂、大伴氏、佐伯氏を中心とするグループによって計画された藤原仲麻呂打倒未遂事件。
密告により、大伴氏や佐伯氏ら加担したものは根こそぎ葬られた。
背景をみてみると、天平勝宝元年(749年)七月聖武天皇の退位によって孝謙天皇(阿倍内親王)が即位し,藤原仲麻呂は大納言に昇進した。同年八月、光明皇太后のために紫微中台(しびちゆうだい)が設けられ、長官に仲麻呂が就任した。これにより仲麻呂は独自の権力機構を構築するに至ったのである。
光明皇太后、孝謙天皇、藤原仲麻呂の勢力の台頭である。光明皇太后は藤原不比等の娘で、孝謙天皇は不比等の孫にあたる。仲麻呂も不比等の孫であるので藤原氏が権力を握って来るのである。
権力を握った仲麻呂は、聖武天皇、橘諸兄を支持していた、大伴氏や佐伯氏の人事面での意図的な「選別」を行い「分断」を図って行くのである。
天平勝宝八年(756年)五月三日聖武上皇が崩御するや、同十一日大伴一族の長老格であった大伴古慈悲が朝廷を誹謗したかどで拘禁されたのである。(仲麻呂の讒言によるものであった。)
大伴氏がよりどころにしていた橘諸兄が藤原仲麻呂一族に誣告(ぶこく)され自ら官を辞し、天平勝宝九年(757年)一月失意のうちに亡くなったのである。
そして「橘奈良麻呂の変」が同年七月に起きるのである。
この渦中にあって、大伴氏一族の長たる大伴家持の立ち位置ならびに幼馴染でなにかと家持の心の支えになって来た大伴池主との決別に関しては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1021)」で紹介している。
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家持は事変の圏外にあって、難を逃れたのである。この激動のさなか、ある意味傍観者的態度で時の流れをみつつ過去を懐かしむ逃避的な歌(四四八三歌)を詠っている。
題詞は、「勝寶九歳六月廿三日於大監物三形王之宅宴歌一首」<勝宝九歳(757年)六月二十三日に、大監物(だいけんもつ)三形王(みかたのおほきみ)が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌一首>である。
(注)六月二十三日:山背王の密告で橘奈良麻呂の謀反が漏れた五日前
◆宇都里由久 時見其登尓 許己呂伊多久 牟可之能比等之 於毛保由流加母
(大伴家持 巻二十 四四八三)
≪書き下し≫移り行く時見るごとに心痛く昔の人し思ほゆるかも
(訳)次々と移り変わってゆく季節のありさまを見るたびに、胸をえぐられるばかりに、昔の人が思い出されてなりません。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
左注は、「右兵部大輔大伴宿祢家持作」<右は、兵部大輔大伴宿禰家持作る>である。
そして、事変の起きた七月四日以降にその胸中を歌(四四八四歌)にしているのである。
◆佐久波奈波 宇都呂布等伎安里 安之比奇乃 夜麻須我乃祢之 奈我久波安利家里
(大伴家持 巻二十 四四八四)
≪書き下し≫咲く花はうつろふ時ありあしひきの山菅(やますが)の根し長くはありけり
(訳)はなやかに咲く花はいつか散り過ぎる時がある。しかし、目に見えぬ山菅の根こそは、ずっと変わらず長く続いているものなのであった。(同上)
(注)上二句は三三八三歌の上二句を承けている。
左注は、「右一首大伴宿祢家持悲怜物色變化作之也」<右の一首は、大伴宿禰家持、物色(ぶっしょく)の変化(うつろ)ふことを悲しび怜(あはれ)びて作る>である。
光明皇后によってつくられた法華寺ならびに同皇后の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その3改)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
※20240106一部改訂