●歌は、「我が門の榎の実もり食む百千鳥千鳥は来れど君ぞ来まさぬ」である。
●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(5)にある。
●歌をみていこう。
◆吾門之 榎實毛利喫 百千鳥 ゝゝ者雖来 君曽不来座
(作者未詳 巻十六 三八七二)
≪書き下し≫我(わ)が門(かど)の榎(え)の実(み)もり食(は)む百千鳥(ももちとり)千鳥(ちとり)は来(く)れど君ぞ来(き)まさぬ
(訳)我が家の門口の榎(えのき)の実を、もぐように食べつくす群鳥(むらどり)、群鳥はいっぱいやって来るけれど、肝心な君はいっこうにおいでにならぬ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)もり食む:もいでついばむ意か。
(注)ももちどり 【百千鳥】名詞①数多くの鳥。いろいろな鳥。②ちどりの別名。▽①を「たくさんの(=百)千鳥(ちどり)」と解していう。③「稲負鳥(いなおほせどり)」「呼子鳥(よぶこどり)」とともに「古今伝授」の「三鳥」の一つ。うぐいすのことという。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
足の遠のいた男への思いと恨みを詠っている。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その798)」で紹介している。
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この歌の次に収録されている歌は、門口で千鳥が鳴いているので、人に知られたら大変だ、
早く起きて出て行っておくれと言う歌である。こちらもみてみよう。
◆吾門尓 千鳥數鳴 起余ゝゝ 我一夜妻 人尓所知名
(作者未詳 巻十六 三八七三)
≪書き下し≫我が門に千鳥(ちどり)しば鳴く起きよ起きよ我が一夜夫人に知らゆな
(訳)我が家の門口で鳥がいっぱい鳴き立てている。さあ起きて起きて、私の一夜夫さん、人に知られないでね。(同上)
(注)一夜夫:一夜だけ床を共にした行きずりの男
なんとも滑稽な歌である。思わず吹き出したくなるような歌である。三句目の「起きよ起きよ」という、実際の声掛けをそのまま歌いこんでいるところが一層おかしくさせている。
これが万葉集の歌かと思ってしまう。
五月の梅雨の合間、久しぶりに平城宮跡付近をぶらつく。
まず称徳(孝謙)天皇(孝謙天皇は重祚して称徳天皇)の陵からのスタートである。
(注)孝謙天皇:[718〜770]第46代天皇。女帝。在位749〜758。聖武天皇の第2皇女。母は光明皇后。名は阿倍(あべ)。橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱後、淳仁天皇に譲位。上皇として僧道鏡を寵愛(ちょうあい)して天皇と対立。藤原仲麻呂の乱後、天皇を廃して重祚(ちょうそ)、称徳天皇となった。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
このブログを書いていなければ、孝謙天皇については、弓削道鏡のスキャンダラスな話しか知らなかったが、孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后の娘で、大伴家持をも巻き込む橘奈良麻呂の変絡みの一方の重要メンバーの一人であったことなど知る由もなかった。
橘奈良麻呂の変については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1044)」で紹介している。
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平城宮跡の北端を東に進み、大極殿の後ろを通り、平城天皇陵に到着。
(注)平城天皇(へいぜいてんのう):桓武天皇皇子。藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に連座して廃された皇太子早良(さわら)親王にかわって皇太子となり、806年即位。造都と征夷で疲弊した国家財政緊縮のため、官司を大幅に整理,民情把握のための観察使の創設などを行うが、病弱のため809年嵯峨天皇に譲位、旧都平城京へ移った。以後嵯峨天皇の平安京と平城上皇の平城京の二所の朝廷の対立が生じ、上皇が寵愛する藤原薬子(くすこ)が平城還都・上皇重祚をはかるが失敗(薬子の変)、上皇は剃髪・隠棲した。(コトバンク 平凡社百科事典マイペディア)
遠くに三笠山をそしてその麓の東大寺、二月堂を見ながら、水上池を右手に北に進み、磐姫皇后陵に。途中水上池の白鳥にご挨拶。
皇后陵の堀にはスイレンが水に浮かぶ妖精のように可憐な花を咲かせていた。
磐姫皇后の歌碑については、先日大阪堺市の仁徳天皇陵に行き巡って来た。
歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1034から1037)」で紹介している。
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皇后陵を後にして少し回り込んで、2年ぶりに中臣女郎の万葉歌碑を尋ねた。サツキが咲いており歌碑に花を添えていた。
歌をみてみよう。
◆娘子部四 咲澤二生流 花勝見 都毛不知 戀裳摺可聞
(中臣女郎 巻四 六七五)
≪書き下し≫をみなえし佐紀沢(さきさわ)に生(お)ふる花かつみかつても知らぬ恋もするかも
(訳)おみなえしが咲くという佐紀沢(さきさわ)に生い茂る花かつみではないが、かつて味わったこともないせつない恋をしています。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)をみなえし:「佐紀」の枕詞。咲くの意。
(注)さきさわ(佐紀沢):平城京北一帯の水上池あたりが湿地帯であったところから、
このように呼ばれていた。
(注)はなかつみ【花かつみ】名詞:水辺に生える草の名。野生のはなしょうぶの一種か。歌では、序詞(じよことば)の末にあって「かつ」を導くために用いられることが多い。芭蕉(ばしよう)が『奥の細道』に記したように、陸奥(みちのく)の安積(あさか)の沼(=今の福島県郡山(こおりやま)市の安積山公園あたりにあった沼)の「花かつみ」が名高い。「はながつみ」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)かつて:①(下に打消しの語を伴って)今まで一度も。ついぞ。
②(下に打消しの語を伴って)決して。まったく。
この歌の、題詞は、「中臣女郎(なかとみのいらつめ)贈大伴宿祢家持歌五首」とある。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その30改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)
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万歩計も久々11,000歩強の数字をカウントしていた。
コロナ禍のプチウォーキングであった。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」