万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1047)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(7)―万葉集 巻二 一三三

●歌は、「笹の葉はみ山もさやにさやけども我は妹思ふ別れ来ぬれば」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(7)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂

●歌碑は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(7)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆

               (柿本人麻呂 巻二 一三三)

 

≪書き下し≫笹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども我(わ)れは妹思ふ別れ来(き)ぬれば

 

(訳)笹の葉はみ山全体にさやさやとそよいでいるけれども、私はただ一筋にあの子のことを思う。別れて来てしまったので。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)「笹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども」は、高角山の裏側を都に向かう折りの、神秘的な山のそよめき

(注の注)島の星山(高角山):「江津市のほぼ中心に位置する島の星山(別名:高角山 標高470m)。その昔、隕石が落下したことからこの名で呼ばれるようになりました。万葉の歌人柿本人麻呂と依羅娘子(よさみのおとめ)との惜別の情をうたったといわれるこの山は、中腹には隕石を祀った祠や椿の里がある他、人丸神社や歌碑があります。」(江津市観光協会HP)

 

この歌は、題詞、「柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首并短歌」<柿本朝臣人麻呂、石見(いはみ)の国より妻に別れて上(のぼ)り来(く)る時の歌二首并(あは)せて短歌>の反歌二首の一首である。

 

春日大社神苑萬葉植物園の植物解説板によると、万葉集で詠われた「ささ」はクマザサを意味すると書かれている。

 

一三一~一三九歌は、「石見相聞歌」と呼ばれる長歌二首の大きな歌群である。

 

 この歌並びに一三一(長歌)、一三二(短歌)、一三四(短歌、或る本の歌)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その307)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 一三五歌(長歌)、一三六、一三七歌(短歌二首)ならびに或る本の歌、一三八歌(長歌)、一三九歌(短歌)をみてみよう。

 

 

◆角障経 石見之海乃 言佐敞久 辛乃埼有 伊久里尓曾 深海松生流 荒磯尓曾 玉藻者生流 玉藻成 靡寐之兒乎 深海松乃 深目手思騰 左宿夜者 幾毛不有 延都多乃 別之来者 肝向 心乎痛 念乍 顧為騰 大舟之 渡乃山之 黄葉乃 散之乱尓 妹袖 清尓毛不見 嬬隠有 屋上乃<一云室上山> 山乃 白雲間 渡相月乃 雖惜 隠比来者 天傳 入日刺奴礼 大夫跡 念有吾毛 敷妙乃 衣袖者 通而沽奴

                (柿本人麻呂 巻二 一三五)

 

≪書き下し≫つのさはふ 石見の海の 言(こと)さへく 辛(から)の崎なる 海石(いくり)にぞ 深海松(ふかみる)生(お)ふる 荒礒(ありそ)にぞ 玉藻は生(お)ふる 玉藻なす 靡(なび)き寝(ね)し子を 深海松の 深めて思へど さ寝(ね)し夜(よ)は 幾時(いくだ)もあらず 延(は)ふ蔦(つた)の 別れし来れば 肝(きも)向(むか)ふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大船(おほぶね)の 渡(わたり)の山の 黄葉(もみちば)の 散りの乱(まが)ひに 妹が袖 さやにも見えず 妻ごもる 屋上(やがみ)の <一には「室上山(むろかみやま)」といふ> 山の 雲間(くもま)より 渡らふ月の 惜しけども 隠(かく)らひ来れば 天伝(あまづた)ふ 入日(いりひ)さしぬれ ますらをと 思へる我(わ)れも 敷栲(しきたへ)の 衣(ころも)の袖は 通りて濡(ぬ)れぬ

 

(訳)石見の海の唐の崎にある暗礁にも深海松(ふかみる)は生い茂っている、荒磯にも玉藻は生い茂っている。その玉藻のように私に寄り添い寝たいとしい子を、その深海松のように深く深く思うけれど、共寝した夜はいくらもなく、這(は)う蔦の別るように別れて来たので、心痛さに堪えられず、ますます悲しい思いにふけりながら振り返って見るけど、渡(わたり)の山のもみじ葉が散り乱れて妻の振る袖もはっきりとは見えず、そして屋上(やかみ)の山<室上山>の雲間を渡る月が名残惜しくも姿を隠して行くように、ついにあの子の姿が見えなくなったその折しも、寂しく入日が射して来たので、ひとかどの男子だと思っている私も、衣の袖、あの子との思い出のこもるこの袖は涙ですっかり濡れ通ってしまった。(同上)

(注)つのさはふ 分類枕詞:「いは(岩・石)」「石見(いはみ)」「磐余(いはれ)」などにかかる。語義・かかる理由未詳。(学研)

(注)ことさえく【言喧く】[枕]:外国人が意味の通じない言葉をしゃべる意から、「韓(から)」「百済(くだら)」にかかる。ことさやぐ。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)唐の崎:江津市大鼻崎あたりか。

(注)いくり【海石】名詞:海中の岩石。暗礁。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ふかみる【深海松】名詞:海底深く生えている海松(みる)(=海藻の一種)。(学研)

(注)さね【さ寝】名詞:寝ること。特に、男女が共寝をすること。 ※「さ」は接頭語。(学研)

(注)はふつたの【這ふ蔦の】分類枕詞:蔦のつるが、いくつもの筋に分かれてはいのびていくことから「別る」「おのが向き向き」などにかかる。(学研)

(注)きもむかふ【肝向かふ】分類枕詞:肝臓は心臓と向き合っていると考えられたことから「心」にかかる。(学研)

(注)おほぶねの【大船の】分類枕詞:①大船が海上で揺れるようすから「たゆたふ」「ゆくらゆくら」「たゆ」にかかる。②大船を頼りにするところから「たのむ」「思ひたのむ」にかかる。③大船がとまるところから「津」「渡り」に、また、船の「かぢとり」に音が似るところから地名「香取(かとり)」にかかる。(学研)

(注)渡の山:所在未詳

(注)つまごもる【夫隠る/妻隠る】[枕]:① 地名「小佐保(をさほ)」にかかる。かかり方未詳。② つまが物忌みのときにこもる屋の意から、「屋(や)」と同音をもつ地名「屋上の山」「矢野の神山」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)あまづたふ【天伝ふ】分類枕詞:空を伝い行く太陽の意から、「日」「入り日」などにかかる。(学研)

 

 反歌二首もみてみよう。

 

◆青駒之 足掻乎速 雲居曽 妹之當乎 過而来計類 <一云 當者隠来計留>

                (柿本人麻呂 巻二 一三六)

 

≪書き下し≫青駒(あをこま)が足掻(あが)きを速(はや)み雲居(くもゐ)にぞ妹(いも)があたりを過ぎて来にける <一には「あたりは隠り来にける」といふ>

 

(訳)この青駒の奴(やつ)の歩みが速いので、雲居はるかにあの子のあたりを通り過ぎて来てしまった。<あの子のあたりは次第に見えなくなってきた。>(同上)

 

 

◆秋山尓 落黄葉 須臾者 勿散乱曽 妹之當将見<一云 知里勿乱曽>

               (柿本人麻呂 巻二 一三七)

 

≪書き下し≫秋山に散らふ黄葉(もみちば)しましくはな散り乱(まが)ひそ妹があたり見む <一には「散りな乱ひそ」といふ>

 

(訳)秋山に散り落ちるもみじ葉よ、ほんのしばらくでもよいから散り乱れてくれるな。あの子のあたりを見ようものを。<散って乱れてくれるな>(同上)

 

 

一三八、一三九歌もみてみよう。

 

題詞は、「或本歌一首幷短歌」<或本の歌一首幷(あは)せて短歌>である。

 

◆石見之海 津乃浦乎無美 浦無跡 人社見良米 滷無跡 人社見良目 吉咲八師 浦者雖無 縦恵夜思 潟者雖無 勇魚取 海邊乎指而 柔田津乃 荒礒之上尓 蚊青生 玉藻息都藻 明来者 浪己曽来依 夕去者 風己曽来依 浪之共 彼依此依 玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎 露霜乃 置而之来者 此道之 八十隈毎 萬段 顧雖為 弥遠尓 里放来奴 益高尓 山毛超来奴 早敷屋師 吾嬬乃兒我 夏草乃 思志萎而 将嘆 角里将見 靡此山

               (柿本人麻呂 巻二 一三八)

 

≪書き下し≫石見(いはみ)の海 津(つ)の浦(うら)をなみ 浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指して 和田津(にきたつ)の 荒礒(ありそ)の上に か青(あを)く生(お)ふる 玉藻(たまも)沖つ藻 明け来(く)れば 波こそ来(き)寄れ 夕(ゆふ)されば 風こそ来寄れ 波の共(むた)  か寄りかく寄り 玉藻なす 靡(なび)き我(わ)が寝(ね)し 敷栲(しきたへ)の 妹が手本(たもと)を 露霜(つゆしも)の 置きてし来(く)れば この道の 八十(やそ)隈(くま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど いや遠(とほ)に 里離(さか)り来(き)ぬ いや高(たか)に 山も越え来ぬ はしきやし 我が妻の子が 夏草(なつくさ)の 思ひ萎(しな)えて 嘆くらむ 角(つの)の里見む 靡けこの山

 

(訳)石見の海、この海には船を泊める浦がないので、よい浦がないと人は見もしよう、よい潟がないと人は見もしよう、が、たとえよい浦はなくとも、たとえよい潟はなくても、この海辺を目ざして、和田津の荒磯のあたりに青々と生い茂る美しい沖の藻、その藻に、朝方になると波が寄って来る、夕方になると風が寄って来る。その風浪(かざなみ)のまにまに寄り伏し寄り伏しする玉藻のように寄り添い寝たいとしい子なのに、その子を冷え冷えとした霜の置くようにはかなくも置き去りにして来たので、この行く道の多くの曲がり角ごとにいくたびもいくたびも振り返って見るけれど、いよいよ遠く妻の里は遠のいてしまった。いよいよ高く山も越えて来てしまった。いとしいわが妻の子が夏草のようにしょんぼりしているであろう、その角(つの)の里を見たい。靡(なび)け、この山よ。(同上)

(注)津の浦:船を泊める港用の浦

 

 

◆石見之海 打歌山乃 木際従 吾振袖乎 妹将見香

                 (柿本人麻呂 巻二 一三九)

 

≪書き下し≫石見の海打歌(うつた)の山の木(こ)の間(ま)より我(わ)が振る袖を妹(いも)見つらむか

 

(訳)石見の海、海の辺の打歌の山の木の間から私が振る袖、この袖を、あの子は見てくれているであろうか。(同上)

(注)打歌の山:所在未詳。「高角山」の実名らしい。

 

左注は、「右歌躰雖同句ゝ相替 因此重載」<右は、歌の躰(すがた)同じといへども、句々(くく)相替(あひかは)れり。これに因(よ)りて重ねて載(の)す。>である。

 

 

 この歌群の歌を読んだとき時、部立「相聞」に収録されているのを忘れてしまっていた。特に一三五歌の、「天伝(あまづた)ふ 入日(いりひ)さしぬれ ますらをと 思へる我(わ)れも 敷栲(しきたへ)の 衣(ころも)の袖は 通りて濡(ぬ)れぬ:(訳)寂しく入日が射して来たので、ひとかどの男子だと思っている私も、衣の袖、あの子との思い出のこもるこの袖は涙ですっかり濡れ通ってしまった。」とあるように、「ますらをと 思へる我(わ)れも」「衣(ころも)の袖は 通りて濡(ぬ)れぬ」ほど涙を流すので、「死別」と勘違いしてしまった。

 中西 進氏は、その著「古代史で楽しむ万葉集」(角川ソフィア文庫)の中で、「この結末の段落は、一種壮絶である。(中略)それではこの壮絶さは何のゆえに生ずるのか。(中略)これはたったひとつ、人麻呂の詩精神のあり方だったと思われる。離別とは、愛への告別である。だから死が愛をもって語られるように、愛もまた死をもって語らなければならなかったのである。死によって透かし見た愛がこの壮絶な結びを呼んだのではなかったか。」と書かれている。

 ふっと、大伯皇女の「うつそみの人にある我(わ)れや明日(あす)よりは二上山を弟背(いろせ)と我(あ)れ見む」(巻二 一六五)の一首が頭をよぎっていったのである。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の発見と漢字世界」 神野志 隆光 著 (東京大学出版会

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「江津市観光協会HP」