万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑巡り(その1055)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(15)―万葉集 巻十九 四二七八

●歌は。「あしひきの山下ひかげかづらける上にやさらに梅をしのはむ」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(15)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(15)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆足日木之 夜麻之多日影 可豆良家流 宇倍尓左良尓 梅乎之努波

             (大伴家持 巻十九 四二七八)

 

≪書き下し≫あしひきの山下(やました)ひかげかづらける上(うへ)にやさらに梅をしのはむ

 

(訳)山の下蔭の日蔭の縵、その日陰の縵を髪に飾って賀をつくした上に、さらに、梅を賞でようというのですか。その必要もないと思われるほどめでたいことですが、しかしそれもまた結構ですね。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)ひかげのかづら【日陰の蔓・日陰の葛】名詞:①しだ類の一種。つる性で、常緑。深緑の色は美しく、変色しないという。神事に使われた。日陰草。②大嘗祭(だいじようさい)などのとき、親王以下女孺(によじゆ)以上の者が物忌みのしるしとして冠の左右に掛けて垂らしたもの。古くは①を使ったが、のちには、白色または青色の組み紐(ひも)を使った。日陰の糸。◇「日陰の鬘」とも書く。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典) ここでは①の意で、これを縵にするのは新嘗祭の礼装。

 

 題詞は、「廿五日新甞會肆宴應詔歌六首」<二五日に、新嘗会(にひなへのまつり)の肆宴(とよのあかり)にして詔(みことのり)に応(こた)ふる歌六首>であり、家持のこの歌で歌い納めになっている。

 

 他の五首もみてみよう。

 

◆天地与 相左可延牟等 大宮乎 都可倍麻都礼婆 貴久宇礼之伎

               (大納言巨勢朝臣 巻十九 四二七三)

 

≪書き下し≫天地(あめつち)と相栄(あひさか)えむと大宮を仕へまつれば貴(たふと)く嬉(うれ)しき

 

(訳)無窮不変の天地とともにお栄えになるようにと執り行なわれる大宮の祭り、この祭りにお仕え申していると、何とも貴く嬉しいことです。(同上)

(注)大宮:新嘗の新殿

 

左注は、「右一首大納言巨勢朝臣」<右の一首は、大納言(だいなごん)巨勢朝臣(こせのあそみ)である。

 

 

◆天尓波母 五百都綱波布 万代尓 國所知牟等 五百都々奈波布<似古歌而未詳>

               (石川年足朝臣 巻十九 四二七四)

 

≪書き下し≫天(あめ)にはも五百(いほ)つ綱延(つなは)ふ万代(よろづよ)に国知らさむと五百(いほつ)つ綱(つな)延ふ<古歌に似ていまだ詳らかにあらず>

 

(訳)天空には、まあ、あまたの綱が賑々しく張り渡してあります。万代ののちまでもこの国をお治めになるようにと、あまたの綱が賑々しく張り渡してあります。(同上)

(注)天空:神殿の天井。前歌の「大宮」をほめる。

 

左注は、「右一首式部卿石川年足朝臣」<右の一首は、式部卿(しきぶのきやう)石川年足朝臣(いしかはのとしたりのあそみ)>である。

 

 

◆天地与 久万弖尓 万代尓 都可倍麻都良牟 黒酒白酒乎

               (文室智努真人 巻十九 四二七五)

 

≪書き下し≫天地と久しきまでに万代(よろづよ)に仕へまつらむ黒酒(くろき)白酒(しろき)を

 

(訳)天地とともに遠い遠い先まで、万代にお仕えも仕上げよう。このめでたい黒酒や白酒を捧げて。(同上)

(注)くろき【黒酒】名詞:黒い酒。新嘗祭(にいなめさい)や大嘗祭(だいじようさい)で供えられる。 ※「き」は、酒の意。[反対語] 白酒(しろき)。(学研)

(注)しろき【白酒】名詞:新嘗祭(にいなめまつ)り・大嘗祭(だいじようさい)などに神前に供える白い酒。 ※「き」は酒のこと。[反対語] 黒酒(くろき)。(学研)

 

左注は、「右一首従三位文室智努真人」<右の一首は、従三位文室智努真人(ふみやのちののまひと)>である。

 

 

◆嶋山尓 照在橘 宇受尓左之 仕奉者 卿大夫等

               (藤原八束朝臣 巻十九 四二七六)

 

≪書き下し≫島山に照れる橘(たちばな)うずに挿(さ)し仕へまつるは卿大夫(まへつきみ)たち

 

(訳)御苑(ぎょえん)の山に照り輝く橘、その実を髪に挿して、今や挙(こぞ)ってお仕えしているのは、我が大君の卿大夫(まえつきみ)たちです。(同上)

(注)しまやま【島山】名詞:①島の中の山。また、川・湖・海などに臨む地の島のように見える山。②庭の池の中に作った山。築山(つきやま)。(学研)ここでは②の意

 

左注は、「右一首右大辨藤原八束朝臣」<右の一首は、右大弁(うだいべん)藤原八束朝臣(ふぢはらのやつかのあそみ)>である。

 

 

◆袖垂而 伊射吾苑尓 鴬乃 木傳令落 梅花見尓

               (藤原永手朝臣 巻十九 四二七七)

 

≪書き下し≫袖(そで)垂(た)れていざ我が園(その)にうぐひすの木伝(こづた)ひ散らす梅の花見に

 

(訳)お役目ご苦労様でした。次いでは晴れ着の袖を垂らしながら、さあわれらの園へ行きましょう。鴬が枝を伝って散らす梅の花なんぞ見に。(同上)

(注)我が園:我らの園。前歌の「島山」を承け、別に設けた園遊の場をこう言った。

 

左注は、「右一首大和國守藤原永手朝臣」<右の一首は、大和の国の守(かみ)藤原永手朝臣(ふぢはらのながてのあそみ)>である。

 

 伊藤 博氏の脚注によると、大納言巨勢朝臣奈弖麻呂は、八十三歳。神儀の責任者で、長老として最初に詠ったのであろう。石川年足は、六十五歳、文室智努真人は、六十歳、藤原八束は三十八歳とある。藤原永手は三十九歳で、八束の兄である。この日の二次会にあたる園遊を取り仕切ったと思われる。家持は三十五歳で、歌い納めをしている。

 

家持の歌の上三句「あしひきの山下ひかげかづらける」は、八束の歌の「島山に照れる橘(たちばな)うずに挿(さ)し」を承け、下二句「上(うへ)にやさらに梅をしのはむ」は、永手の「うぐひすの木伝(こづた)ひ散らす梅の花見に」に対して、その上さらに梅を賞でようというのですかと、まとめにふさわしい歌い方になっている。

「上(うへ)にやさらに」の「や」は、反語と詠嘆を兼ねており、四二七三から四二七六歌に対する神儀の満足感(反語)そして四二七七歌に対しては園遊(二次会)への期待(詠嘆)となっている。

 

 八束の歌の「島山に照れる橘(たちばな)うずに挿(さ)し」は、家持の四二六六歌「・・・島山に赤(あか)る橘(たちばな)うずに挿(さ)し・・・」を承けているという。このことから、藤原八束と家持の絆の深さがうかがえる。八束は聖武天皇にその才をかわれ、同じ藤原一族の藤原仲麻呂とは一線を画し、聖武天皇橘諸兄らと懇意にしていたのである。

 この家持の四二六六歌(長歌)ならびに四二六七歌(短歌)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その270改)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

万葉集の歌、特に宴の歌の流れ、そしていかに深読みしていくかを痛感させられる歌群である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」