●歌は、「天にあるやささらの小野に茅草刈り草刈りばかに鶉を立つも」である。
●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(16)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「怕物歌三首」<怕(おそ)ろしき物の歌三首>である。
◆天尓有哉 神樂良能小野尓 茅草苅 ゝゝ婆可尓 鶉乎立毛
(作者未詳 巻十六 三八八七)
≪書き下し≫天(あめ)にあるやささらの小野(をの)に茅草(ちがや)刈り草(かや)刈りばかに鶉(うずら)を立つも
(訳)この世のものならぬ天界に浮いているささらの小野、霊気肌立つその野で茅がやを刈っていると、私の刈り場の草陰(くさかげ)から、だしぬけに鶉(うずら)のやつが飛び立ってさ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)天にあるささらの小野:天上霊異の世界にあるささらの小野
(注の注)「天にあるささらの小野」というフレーズは、「石田王(いはたのおほきみ)が卒(みまか)りし時に、丹生王(にふのおほきみ)が作る歌一首 幷(あは)せて短歌」の長歌(四二〇歌)の中にも見られる。「・・・木綿(ゆふ)たすき かひなに懸(か)けて
天(あめ)なる ささらの小野(をの)の 七節菅(ななふすげ) 手に取り持ちて・・・」
春日大社神苑萬葉植物園の植物解説板に、「チガヤにチは、千(セン)の意味で草がむらがるさまを表し、カヤが群生している様子を意味する。チガヤは飢饉の時に食べる「救荒(きゅうこう)植物」の一つで、春の芽出しの頃になると葉に包まれた若い穂を抜いて食べることができ、ほのかな甘い味がする」と書かれている。
(注)きゅうこうしょくぶつ【救荒植物】:山野に自生する植物で、飢饉(ききん)の際に食糧になるもの。ノビル・ナズナ・オオバコなど。備荒植物。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)
他の二首もみてみよう、
◆奥國 領君之 柒屋形 黄柒乃屋形 神之門渡
(作者未詳 巻十六 三八八八)
≪書き下し≫沖つ国うしはく君の塗(ぬ)り屋形(やかた)丹(に)塗(ぬ)りの屋形神の門(と)渡る
(訳)沖の果ての国、死霊(しにたま)ひしめく沖の国を、一手に治める大君さまの乗る丹塗(にぬり)の船、その丹塗りの屋形船が、ほら見い、あの荒波逆立つ神の瀬戸を、今しも渡って行く。(同上)
(注)うしはく【領く】他動詞:支配する。領有する。 ※上代語。(学研)
(注)塗り屋形:魔除けのために赤く塗った屋形船
(注)神の門:異界への境となる恐しい海峡
◆人魂乃 佐青有公之 但獨 相有之雨夜乃 葉非左思所念
(作者未詳 巻十六 三八八九)
≪書き下し≫人魂(ひとだま)のさ青(を)なる君がただひとり逢(あ)へりし雨夜(あまよ)の葉非左し思ほゆ
(訳)人魂そのままの真っ青な顔をした君、さよう、このあいだのかのあの君が、たった一人、ふわりと現れてこの私に出くわした暗い雨の夜、あの夜の葉非左、ああぞっとする、とても忘れられない。(同上)
(注)ひとだま【人魂】名詞:夜、空中を飛ぶ青白い火の玉。死んだ人の魂が身体を離れたものと考えられていた。(学研)
(注)葉非左:訓義未詳(はぶりをそおもふ、はひやしおもゆ、といった見方も)
題詞「怕(おそ)ろしき物の歌三首」について、伊藤 博氏は、脚注で「畏怖の対象となる物を題材とする歌。天上・海上・地上に関する歌が組み合わされている。『物』は『霊』の意」で「すべて怖がらせる歌である。」と述べられている。
ポイントは「怖がらせる歌」である。
この三首を詠んで「怖い」とは感じない。しかし、読みようによっては「怖がらせる」ことができる。この歌の前二首は「乞食者(ほかひひと)が詠う歌二首」が収録されている。「乞食者(ほかひひと)」というのは、寿歌を歌って施しを受けた門付け芸人」のことである。歌を「詠う」ことによって生活を立てている、聞き手があって初めて成り立つのである。
巻十六で、この二首に続いて収録されていることを考えると、「聞き手」を「怖がらせる」「詠い方」ができる人たちの歌と考えられる。
「乞食者(ほかひひと)が詠う歌二首」については、「鹿のために痛みを述べて作る歌」(三八八五歌)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その305)」で紹介している。
➡
同「蟹ののために痛みを述べて作る歌」(三八八六歌)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その213改)」で紹介している。
➡
そこそこの知的レベルの人たちであれば、歌を覚え、歌の意味も理解したうえで詠うことができるであろうが、聞き手に情景をうまく伝え、「怖がらせる」演出をするには、それなりの知識が必要であろう。まして「乞食者(ほかひひと)が詠う歌」は長文である。万葉の時代には、文字を書き文字が読める人は限られていたと思われれる。「門前の小僧習わぬ経を読む」式なのか。
情報量が少ないが故に、「怖がる」という反応は小さな刺激でも大きく反応するのであろう。三八八七歌の場合など、何人かの聴衆を集め物語を聞かせ、最後の締めに歌を朗々と詠い、結句の前に少し時間を取り、シーンとした瞬間「鶉乎立毛」と、大声で叫べば、怖がりつつも先を知りたいという好奇心に火がつくや、一転笑いの渦の落ちがつき、聴衆のおひねりも弾むのかもしれない。
いずれにしても、これらの歌が、万葉集の編纂者のもとに届いたルートを考えてみるのも面白い。
この手の歌も万葉集に収録していくエネルギーや寛容性には驚かされる。そこには読み手を意識したしたたかな戦略が隠されていたのかもしれない。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」