●歌は、「ますらをの呼び立てしかばさを鹿の胸別け行かむ秋野萩原」である。
●歌碑は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(29)にある。
●歌をみていこう。
◆麻須良男乃 欲妣多天思加婆 左乎之加能 牟奈和氣由加牟 安伎野波疑波良
(大伴家持 巻二十 四三二〇)
≪書き下し≫すらをの呼び立てしかばさを鹿(しか)の胸(むね)別(わ)け行かむ秋野萩原(はぎはら)
(訳)男子(おのこ)たちが大声で追い立てたりすると、雄鹿が胸で押し分ける遠ざかって行ってしまう、萩咲き乱れる秋の野よ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
この歌を含む四三一五から四三二〇歌の歌群の左注は、「右歌六首兵部少輔大伴宿祢家持獨憶秋野聊述拙懐作之」<右の歌六首は、兵部少輔(ひやうぶのせうふ)大伴宿禰家持、独り秋野を憶(おも)ひて、いささかに拙懐(せつくわい)を述べて作る>である。
四三一五歌からみてみよう。
◆宮人乃 蘇泥都氣其呂母 安伎波疑尓 仁保比与呂之伎 多加麻刀能美夜
(大伴家持 巻二十 四三一五)
≪書き下し≫宮人(みやひと)の袖付(そでつ)け衣(ころも)秋萩(あきはぎ)ににほひよろしき高円(たかまと)の宮(みや)
(訳)宮仕えの女官たちの着飾っている長袖の着物、その着物の色が秋萩の花に照り映えてよく似合う、高円の宮よ。(同上)
(注)そでつけごろも【袖付け衣】:① 端袖(はたそで)のついた長袖の衣。② 袖のついた衣。肩衣(かたぎぬ)に対していう。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
(注)にほふ【匂ふ】自動詞:①美しく咲いている。美しく映える。②美しく染まる。(草木などの色に)染まる。③快く香る。香が漂う。④美しさがあふれている。美しさが輝いている。⑤恩を受ける。おかげをこうむる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典) ここでは①の意
(注)高円の宮:…中腹には,天智天皇の皇子志貴皇子(しきのみこ)の離宮を寺としたと伝えられる白毫(びやくごう)寺がある。《万葉集》には,聖武天皇が〈高円の野〉で遊猟したときの歌や,同天皇の離宮と考えられる〈高円の宮〉を詠んだ歌などがみえる。歌枕で,萩や月など秋の景物がよく詠まれる。…(コトバンク 世界大百科事典より)
◆多可麻刀能 宮乃須蘇未乃 努都可佐尓 伊麻左家流良武 乎美奈弊之波母
(大伴家持 巻二十 四三一六)
≪書き下し≫高円の宮の裾廻(すそみ)の野づかさに今咲けるらむをみなへしはも
(訳)高円の宮のあちこちの高みで、今頃盛んに咲いているであろう、あのおみなえしの花は、ああ。(同上)
(注)すそみ【裾回・裾廻】名詞:山のふもとの周り。「すそわ」とも。 ※「み」は接尾語。(学研)
(注)のづかさ【野阜・野司】名詞:野原の中の小高い丘。(学研)
◆秋野尓波 伊麻己曽由可米 母能乃布能 乎等古乎美奈能 波奈尓保比見尓
(大伴家持 巻二十 四三一七)
≪書き下し≫秋野には今こそ行かめもののふの男女(をとこをみな)の花にほひ見に
(訳)花咲き乱れる秋の野には、今こそ出かけてみたいものだ。大宮仕えする男女の着物が、花に照り映えるのを見るために。(同上)
(注)もののふの【武士の】分類枕詞:「もののふ」の「氏(うぢ)」の数が多いところから「八十(やそ)」「五十(い)」にかかり、それと同音を含む「矢」「岩(石)瀬」などにかかる。また、「氏(うぢ)」「宇治(うぢ)」にもかかる。(学研)
(注)花にほひ:花の色で衣が映発するさま
◆安伎能野尓 都由於弊流波疑乎 多乎良受弖 安多良佐可里乎 須具之弖牟登香
(大伴家持 巻二十 四三一八)
≪書き下し≫秋の野に露(つゆ)負(お)へる萩(はぎ)を手折(たを)らずてあたら盛りを過ぐしてむとか
(訳)秋の野に露を浴びて咲く萩、その萩を手折って賞(め)でることもなく、いたずらに花の盛りを見過ごしてしまうというのか。(同上)
(注)あたら【惜・可惜】副詞:もったいないことに。惜しいことにも。 ⇒参考 形容詞「あたらし」のもとをなす部分で、立派なものに対し、その価値相当に扱われないことを残念だという感情を表す。(学研)
(注)てむ 分類連語:①…てしまおう。▽強い意志を表す。②きっと…だろう。きっと…にちがいない。▽推量を強調する。③…できるだろう。▽実現の可能性を推量する。④…してしまうのがよい。…してしまうべきだ。▽適当・当然の意を強調する。 ⇒ 参考 「てん」とも表記される。 ⇒ なりたち 完了(確述)の助動詞「つ」の未然形+推量の助動詞「む」(学研)
(注)とか 分類連語:〔(文末にあって)伝聞を表す〕…とかいうことだ。 ⇒ なりたち格助詞「と」+係助詞「か」(学研)
◆多可麻刀能 秋野乃宇倍能 安佐疑里尓 都麻欲夫乎之可 伊泥多都良牟可
(大伴家持 巻二十 四三一九)
≪書き下し≫高円の秋野の上(うへ)の朝霧(あさぎり)に妻呼ぶを鹿(しか)出で立つらむか
(訳)高円の秋の野面(のづら)に立ちこめる朝霧、その霧の中に、今頃は妻呼ぶ雄鹿が立ち現われていることであろうか。(同上)
天平勝宝三年(751年)7月、家持は少納言に任ぜられ希望に胸を膨らませて越中から都に戻って来たのである。しかし、この時は、藤原仲麻呂の権勢は、家持の想像以上だったのである。
頼みとする橘諸兄は徐々に実権を削がれていっていたのである。
天平勝宝五年(753年)二月に家持は「春愁三歌」を詠っている。
天平勝宝六年(754年)四月、家持は、少納言から兵部少輔に任ぜられる。
そして、同八年(756年)五月、聖武太上天皇、同九年(757年)一月、橘諸兄が死去、同七月の橘奈良麻呂の変を経て、一気に藤原仲麻呂の世に変貌していったのである。
天平勝宝六年(754年)、家持は、難波の京で聖武天皇の離宮のあった高円の秋の野を思い描きながらこの六首を詠っているのである。
現実逃避の歌といっても差し支えはないだろう。越中時代に格段の飛躍をみせ、次を見据えるような歌の姿はもうない。
越中時代、天平勝宝二年(750年)家持は、三月一日から三日の間に、四一三九から四一五三歌、十五首も作っているのである。これらの歌については、題詞と、歌の書き下しのみであるがすべてブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その819)」で紹介している。
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春愁三歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その551)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「コトバンク 世界大百科事典より」