万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1070)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(30)―万葉集 巻六 九二五

●歌は、「ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(30)万葉歌碑<プレート>(山部赤人

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(30)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆烏玉之 夜乃深去者 久木生留 清河原尓 知鳥數鳴

               (山部赤人 巻六 九二五)

 

≪書き下し≫ぬばたまの夜(よ)の更けゆけば久木(ひさぎ)生(お)ふる清き川原(かはら)に千鳥(ちどり)しば鳴く

 

(訳)ぬばたまの夜が更けていくにつれて、久木の生い茂る清らかなこの川原で、千鳥がちち、ちちと鳴き立てている。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)ひさぎ:植物の名。キササゲ、またはアカメガシワというが未詳。(コトバンク デジタル大辞泉

 

 この歌は、題詞「山部宿祢赤人作歌二首幷短歌」のなかの前群の反歌二首のうちの一首である。前群は吉野の宮を讃える長歌(九二三歌)と反歌二首(九二四、九二五歌)であり、後群は天皇を讃える長歌(九二六歌)と反歌一首(九二七歌)という構成をなしている。

 九二三歌から九二七歌すべてについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その125改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)

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  聖武天皇が即位されて吉野へ行幸されたときに山部赤人が詠った歌である。長歌(九二三歌)と反歌二首(九二四、九二五歌)をみてみよう。

 

◆八隅知之 和期大王乃 高知為 芳野宮者 立名附 青垣隠 河次乃 清河内曽 春部者 花咲乎遠里 秋去者 霧立渡 其山之 弥益ゝ尓 此河之 絶事無 百石木能 大宮人者 常将通

                (山部赤人 巻六 九二三)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ)の 高知(たかし)らす 吉野の宮は たたなづく 青垣隠(おをかきごも)り 川なみの 清き河内(かふち)ぞ 春へは 花咲きををり 秋されば 霧立ちわたる その山の いやしくしくに この川は 絶ゆることなく ももしきの 大宮人は 常に通はむ

 

(訳)あまねく天下を支配されるわれらの大君が高々とお造りになった吉野の宮、この宮は、幾重にも重なる青い垣のような山々に囲まれ、川の流れの清らかな河内である。春の頃には山に花が枝もたわわに咲き乱れ、秋ともなれば川面一面に霧が立ちわたる。その山の幾重にも重なるように幾度(いくたび)も幾度も、この川の流れの絶えぬように絶えることなく、大君に仕える大宮人はいつの世にも変わることなくここに通うことであろう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)たかしらす【高知らす】分類連語:立派に造り営みなさる。 ⇒ なりたち 動詞「たかしる」の未然形+上代の尊敬の助動詞「す」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)たたなづく【畳なづく】分類枕詞:①幾重にも重なっている意で、「青垣」「青垣山」にかかる。②「柔肌(にきはだ)」にかかる。かかる理由は未詳。 ⇒ 参考 (1)①②ともに枕詞(まくらことば)ではなく、普通の動詞とみる説もある。(2)②の歌は、「柔肌」にかかる『万葉集』唯一の例。(学研)

(注)こもる【籠る・隠る】自動詞:①入る。囲まれている。包まれている。②閉じこもる。引きこもる。③隠れる。ひそむ。④寺社に泊りこむ。参籠(さんろう)する。(学研)

(注)かはなみ【川並み・川次】名詞:川の流れのようす。川筋。(学研)

(注)いやしくしくに【弥頻く頻くに】副詞:ますますひんぱんに。いよいよしきりに。(学研)

 

 

 九二三歌は、「やすみしし 我が大君の 高知らす 吉野の宮は」と詠いだしているが。天皇については、「やすみしし 我が大君」であり、吉野宮については「我が大君の高知らす吉野の宮」で「ももしきの 大宮人は 常に通はむ」所なのである。

 これ以外はすべて吉野の自然の情景を詠っている。

 

 短歌(九二四歌)もみてみよう。

 

◆三吉野乃 象山際乃 木末尓波 幾許毛散和口 鳥之聲可聞

                  (山部赤人 巻六 九二四)

 

≪書き下し≫み吉野の象山(さきやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだも騒(さわ)く鳥の声かも

 

(訳)み吉野の象山の谷あいの梢(こずえ)では、ああ、こんなにもたくさんの鳥が鳴き騒いでいる。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 (注)ここだ【幾許】:こんなにもたくさん。こうも甚だしく。(數・量の多い様子)                (weblio古語辞書)

 

九二四、九二五歌ともに、吉野の情景をそして自然を詠っている。

 

 

  犬養 孝氏がその著「万葉の人びと」(新潮文庫)の中で、「赤人は、長歌と短歌で一つの有機的な美のポジションを考えているわけです。だから長歌では、春、秋、山、川と観念的に吉野の自然景観のすばらしさを言っているのです。だから、反歌では現実的な、あまりに現実的な、写実的な姿勢で描くわけです。それで、第一反歌は、(中略)山のことを詠んでいます。というのは長歌は山と川なんですから。そして第二反歌は、川です。(中略)これで、長歌反歌で釣り合いをとっている。観念的なものと、写実的、現実的なもの。そして。長歌が山と川をいっしょにしているから、第一反歌では山、第二反歌では川を詠んでバランスをたもっているわけです。こういうふうに、きわめて美の創作意識の旺盛なのが、山部赤人です。」と書かれている。

 この九二三から九二五歌は、聖武天皇の吉野行幸従駕の歌なのである。しかしそれらしいところは、九二三歌の「やすみしし 我が大君の 高知らす 吉野の宮は」と「ももしきの 大宮人は 常に通はむ」だけである。

 

 柿本人麻呂持統天皇の吉野行幸従駕の歌を見てみると、長歌(三八歌)では、「やすみしし 我(わ)が大君 神(かむ)ながら 神(かむ)さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして・・・山川(やまかは)も 依(よ)りて仕(つか)ふる 神の御代(みよ)かも <訳>安らかに天の下を支配されるわれらが大君、大君が神であるままに神らしくなさるとて、吉野川の激流渦巻く河内に、高殿を高々とお造りになり・・・ああ、我らが大君の代は山や川の神までも心服して仕える神の御代でえあるよ」と詠っている、(注:訳は伊藤 博氏「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

中略の部分も「山の神が大君に捧(ささ)げ奉る、川の神も大君のお食事にお仕え申そうと」と、天皇が絶対的な神として詠われている。

 短歌(三九歌)も「山川も依りて仕ふる神ながら・・・(山の神や川の神までも心服してお仕えする尊い神であられるままに・・・)」と詠っているのである。

 犬養 孝氏が前出書「万葉の人びと(新潮文庫)」の中で、「人麻呂にとって天皇は最高の神ですね。山の神も、川の神も、相寄ってお仕え申す持統天皇は、最高の神様でいらっしゃる」と書いておられる。

 

 赤人も人麻呂も宮廷歌人であるが、時代によって、また宮廷歌人の考え方によって天皇に対する考え方も異なるのである。

 時代の流れとはいえ、万葉集では、ある意味では「歌として」柔軟に収録がなされている。万葉集の懐の深さなのであろう。 

 

 柿本人麻呂の三八、三九歌は持統五年(691年)の吉野行幸従駕の歌で、万葉集には、三六、三七歌として同じく柿本人麻呂の吉野従駕の歌が収録されている。こちらは持統四年(690年)と考えられている。(「別冊國文學 万葉集必携 稲岡耕二編 學燈社)万葉作品年表」

 こちらをみてみよう。

 

題詞は、「幸于吉野宮之時、柿本朝臣人麿作歌」<吉野の宮に幸(いでま)す時に、柿本朝臣人麿が作る歌>である

 

◆八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟竟 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高良思珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可聞

                               (柿本人麻呂 巻一 三六)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大王(おほきみ)の きこしめす 天(あめ)の下(した)に 国はしも さはにあれども 山川(やまかは)の 清き河内(かうち)と 御心(みこころ)を 吉野の国の 花散(ぢ)らふ 秋津(あきづ)の野辺(のへ)に 宮柱(みやはしら) 太敷(ふとし)きませば ももしきの 大宮人(おほみやひち)は 舟(ふな)並(な)めて 朝川(あさかは)渡る 舟競(ぎそ)ひ 夕川(ゆふかは)渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知(たかし)らす 水(みな)激(そそ)く 滝(たき)の宮処(みやこ)は 見れど飽(あ)かぬかも

 

(訳)あまねく天の下を支配されるわれらが大君のお治めになる天の下に、国はといえばたくさんあるけれども、中でも山と川の清らかな河内として、とくに御心をお寄(よ)せになる吉野(よしの)の国の豊かに美しい秋津の野辺(のべ)に、宮柱をしっかとお建てになると、ももしきの大宮人は、船を並べて朝の川を渡る。船を漕ぎ競って夕の川を渡る。この川のように絶えることなく、この山のようにいよいよ高く君臨したまう、水流激しきこの滝の都は、見ても見ても見飽きることはない。

(注)きこしめす【聞こし召す】他動詞:お治めになる。(政治・儀式などを)なさる。 ▽「治む」「行ふ」などの尊敬語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)さはに【多に】副詞:たくさん。 ※上代語。(学研)

(注)かふち【河内】名詞:川の曲がって流れている所。また、川を中心にした一帯。 ※「かはうち」の変化した語。

(注)みこころを【御心を】分類枕詞:「御心を寄す」ということから、「寄す」と同じ音を含む「吉野」にかかる。「みこころを吉野の国」(学研)

(注)ちらふ【散らふ】分類連語:散り続ける。散っている。 ※「ふ」は反復継続の助動詞。上代語。(学研) 花散らふ:枕詞で「秋津」に懸る、という説も。

(注)たかしる【高知る】他動詞:立派に治める。(学研)

 

反歌をみていこう。

 

◆雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟

               (柿本人麻呂 巻一 三七)

 

≪書き下し≫見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む

 

(訳)見ても見ても見飽きることのない吉野の川、その川の常滑のように、絶えることなくまたやって来てこの滝の都を見よう。(同上)

(注)とこなめ【常滑】名詞:苔(こけ)がついて滑らかな、川底の石。一説に、その石についている苔(こけ)とも。(学研)

 

 三六、三七歌は、情景讃歌であり、三八、三九歌の天皇讃歌と組み合わされ、「その後も二群一連として幾度も機能したらしい。」(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫脚注)

 

 三六、三七歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その771)」で紹介している。吉野宮があったとされる「宮滝遺跡」についても紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉