●歌は、「うち上る佐保の川原の青柳は今は春へとなりにけるかも」である。
●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(34)にある。
●歌をみていこう。
◆打上 佐保能河原之 青柳者 今者春部登 成尓鶏類鴨
(大伴坂上郎女 巻八 一四三三)
≪書き下し≫うち上(のぼ)る佐保の川原(かはら)の青柳は今は春へとなりにけるかも
(訳)馬を鞭(むち)打っては上る佐保の川原の柳は、緑に芽吹いて、今はすっかり春らしくなってきた。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)うち上る:私が遡って行く。
(注の注)うち【打ち】接頭語:〔動詞に付いて、語調を整えたり下の動詞の意味を強めて〕①ちょっと。ふと。「うち見る」「うち聞く」②すっかり。「うち絶ゆ」「うち曇る」③勢いよく。「うち出(い)づ」「うち入る」 ⇒語法動詞との間に助詞「も」が入ることがある。「うちも置かず見給(たま)ふ」(『源氏物語』)〈下にも置かずにごらんになる。〉
⇒注意 「打ち殺す」「打ち鳴らす」のように、打つの意味が残っている複合語の場合は、「打ち」は接頭語ではない。打つ動作が含まれている場合は動詞、含まれていない場合は接頭語。「うち」は接頭語、(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)はるべ【春方】名詞:春のころ。春。 ※古くは「はるへ」(学研)
題詞は、「大伴坂上郎女柳歌二首」<大伴坂上郎女が柳の歌二首>の一首である。もう一首を見てみよう。
◆吾背兒我 見良牟佐保道乃 青柳乎 手折而谷裳 見縁欲得
(大伴坂上郎女 巻八 一四三二)
≪書き下し≫我が背子(せこ)が見らむ佐保道(さほぢ)の青柳(あをやぎ)を手折(たを)りてだにも見むよしもがも
(訳)あの方がいつもご覧になっているにちがいない佐保道の青柳を、せめて一枝なりと手折って見るすべがあったらよいのに。(同上)
(注)よし【由】名詞:手段。方法。手だて(学研)
(注)もがな 終助詞≪接続≫体言、形容詞や打消・断定の助動詞の連用形などに付く。:〔願望〕・・・があったらなあ。・・・があればいいなあ。(学研)
この二首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その10改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)
➡
一四三二歌に詠まれている「佐保道(さほじ)」については、佐保山茶論HPにつぎのように書かれている。「佐保路(さほじ):平城京の一条南大路であった現在の一条通りを東に突き当たったところに、東大寺の手貝門(転害門、佐保路門ともいわれる)があります。
この門を起点として、一条通りを西に歩くと道に沿うように、聖武天皇陵―興福院―不退寺―法華寺と続きます。このあたりまでを『佐保路』といいます。
古来、春の女神を佐保姫と呼んでいますが、このやさしさに満ちた名を持つ、標高100メートルほどの佐保山と呼ばれる丘陵は春のようにのどかで、佐保山の裾野の南を流れる佐保川のせせらぎは往来する人の心を癒してくれます。
奈良時代の佐保山の裾野は、その風光と立地の良さから高級貴族の邸宅地で、万葉歌人大伴家持、旅人、坂上郎女を輩出した大伴氏の邸宅、長屋王の別荘『作宝楼』、藤原氏の邸宅『佐保殿』(中略)があったといわれています。」
「佐保山茶論」の近くに佐保の大伴氏の邸宅があったとも書かれている。
同茶論は、奈良市法蓮町856-12 にあり、代表は岡本 昭彦氏で、門前に 大伴家持万葉歌碑がある。(同HPより)
この万葉歌碑についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その32改)」で紹介している。
➡
「佐保の河原」、「佐保道」と詠まれているが、「佐保風」という詞もある。こちらもみてみよう。
題詞は、「大伴坂上郎女与姪家持従佐保還歸西宅歌一首」<大伴坂上郎女、姪(をひ)家持の佐保(さほ)より西の宅(いへ)に還帰(かへ)るに与ふる歌一首>である。
(注)姪(をひ):甥。郎女の異母兄旅人の子、家持。
(注の注)旅人の死後、坂上郎女は、宗家佐保邸の家刀自として家政を管掌していたようである。
(注)西宅:佐保邸よりやく500mほど西にあった別邸か。
◆吾背子我 著衣薄 佐保風者 疾莫吹 及家左右
(大伴坂上郎女 巻六 九七九)
≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)が着(け)る衣(きぬ)薄(うす)し佐保風はいたくな吹きそ家に至るまで
(訳)このお方の着ている着物は薄い。佐保風よ、ひどくは吹かないでおくれ。家に帰り着くまでは。(同上)
九七九歌は天平五年(733年)と言われている。家持が十五歳の時である。
「佐保」の家は、旅人亡き後、坂上郎女は「坂上の家」(佐保西方の歌姫越え界隈)から、こちらに移り住み家刀自として仕切っていたと考えられている。天平四年(732年)が旅人の喪明けであったので、この頃には、家持は、大伴家の所有する別邸(西宅)に移り住んでいたと考えられている。
同じ年(733年)、大伴坂上郎女と家持の間で、「三日月」を詠題とする宴歌が交わされている。この歌のなかで、家持は坂上大嬢への思いを詠っている。
大嬢の年令(十三歳に達していなかったと思われる)を考え、まだ郎女は大嬢を家持に嫁がせることをしなかったのであろう。
九七九歌では、坂上郎女は甥というより(将来の)大嬢の夫、義理の息子としての思い溢れる歌になっている。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その7改)」で郎女の歌を、「同(その8改)」で家持の歌を紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部訂正してあります。ご容赦下さい。)
➡
天平十一年(739年)六月に、家持は「亡妾(ぼうせふ)を悲傷(かな)しびて」歌(四六二歌)を詠んでいる。妾を亡くした時期ははっきりしていないが、長歌を含み、四六二から四七四歌までが収録されている。四六三歌は、家持の四六二歌に和(こた)えた弟書持(ふみもち)の歌である。
その中の四六四歌をみてみよう。
題詞は、「又家持見砌上瞿麦花作歌一首」<また、家持、砌(みぎり)の上(うへ)の瞿麦(なでしこ)の花を見て作る歌一首>である。
◆秋去者 見乍思跡 妹之殖之 屋前乃石竹 開家流香聞
(大伴家持 巻三 四六四)
≪書き下し≫秋さらば見つつ偲へと妹(いも)が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも
(訳)「秋になったら、花を見ながらいつもいつも私を偲(しの)んで下さいね」と、いとしい人が植えた庭のなでしこ、そのなでしこの花はもう咲き始めてしまった。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より))
この歌で詠われている「妹(いも)が植ゑしやどのなでしこ」の「やど」ならびに四六六歌の「我やどに 花ぞ咲きたる そを見れど 心もゆかず・・・」の「我やど」は先の「西宅」であろう。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1051)」で紹介している。
➡
同じく「亡妾悲歌」の四七三歌には「佐保山にたなびく霞見るごとに妹を思ひ出で泣かぬ日はなし」と、亡妾を葬った「佐保山」が詠まれている。
万葉集には、「佐保」というエリアにおける大伴氏一族のホームドラマの展開が収録されているのである。空間軸のなかの時間軸的展開を深堀していくのも一つの課題として浮かび上がって来るである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「佐保山茶論HP」