万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1075,1076)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(35,36)万葉集 巻十九 四一四三、巻二 九〇

―その1075―

●歌は、「もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(35)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(35)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆物部乃 八十▼嬬等之 挹乱 寺井之於乃 堅香子之花

              (大伴家持 巻十九 四一四三)

     ※▼は「女偏に感」⇒「▼嬬」で「をとめ」

 

≪書き下し≫もののふの八十(やそ)娘子(をとめ)らが汲(う)み乱(まが)ふ寺井(てらゐ)の上の堅香子(かたかご)の花

 

(訳)たくさんの娘子(おとめ)たちが、さざめき入り乱れて水を汲む寺井、その寺井のほとりに群がり咲く堅香子(かたかご)の花よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)もののふの【武士の】分類枕詞:「もののふ」の「氏(うぢ)」の数が多いところから「八十(やそ)」「五十(い)」にかかり、それと同音を含む「矢」「岩(石)瀬」などにかかる。また、「氏(うぢ)」「宇治(うぢ)」にもかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その823)」で紹介している。

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 春日大社神苑萬葉植物園の植物解説板によると、「『かたかご(堅香子)』はわが国の山野に自生し、特に雪国に多く咲く多年草で『片栗(カタクリ)』のことを言う。かご状の花が傾いて咲くことから『カタカゴ』の名が付いたという。

 片栗の花は種をまいて咲くまで七年もかかり、(中略)葉は花が咲く頃には二枚になるが、それまではたった一枚しか地表に出さず片葉だけの変わり者で、これが別名『かたこ』・『かたこ百合』と呼ばれる由縁であり、地方によっては『ぶんだい百合』・『うば百合』と呼ぶところもある。

『鱗茎(リンケイ)〔根茎〕』からデンプンを採って片栗粉にしたが、現在では量産ができないためジャガイモなどのデンプンで作っている。」と書かれている。

 

 「片栗粉」について調べてみると、農畜産業振興機構HPに、「日本に現存する中で最も古い私設薬園である森野薬園(史跡・森野旧薬園:奈良県宇陀市)は江戸時代中期に森野初代藤助通貞(とうすけみちさだ)によって創設されました。薬園の近隣に、関西では珍しいカタクリが自生していたため、森野家は専売権を得て片栗粉を製造し、幕府に献上していたと言われています。」と書かれている。葛ほどの歴史はもっていないようである。

 史跡・森野旧薬園といえば、奈良県宇陀市の万葉歌碑巡りをした時、森野旧薬園前を通って神楽岡神社境内の柿本人麻呂の歌碑(巻一 四七歌)を訪ねたことを思いだした。

 同神社境内の歌碑についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その373)」で紹介している。

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―その1076―

●歌は、「君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(36)万葉歌碑<プレート>(衣通王)

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(36)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待  此云山多豆者是今造木者也

                (衣通王 巻二 九〇)

 

≪書き下し≫君が行き日(け)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つにはまたじ ここに山たづといふは、今の造木をいふ

 

(訳)あの方のお出ましは随分日数が経ったのにまだお帰りにならない。にわとこの神迎えではないが、お迎えに行こう。このままお待ちするにはとても堪えられない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)やまたづの【山たづの】分類枕詞:「やまたづ」は、にわとこの古名。にわとこの枝や葉が向き合っているところから「むかふ」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)みやつこぎ【造木】: ニワトコの古名。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

 

 題詞は、「古事記曰 軽太子奸軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王不堪戀慕而追徃時謌曰」<古事記に曰はく 軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女(かるのおほいらつめ)に奸(たは)く。この故(ゆゑ)にその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおほきみ)、恋慕(しの)ひ堪(あ)へずして追ひ徃(ゆ)く時に、歌ひて曰はく>である。

(注)軽太子:十九代允恭天皇の子、木梨軽太子。

(注)軽太郎女:軽太子の同母妹。当時、同母兄妹の結婚は固く禁じられていた。

(注)たはく【戯く】自動詞①ふしだらな行いをする。出典古事記 「軽大郎女(かるのおほいらつめ)にたはけて」②ふざける。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)伊予の湯:今の道後温泉

(注)衣通王:軽太郎女の別名。身の光が衣を通して現れたという。

 

 この歌は、巻二の巻頭歌、「磐姫皇后、天皇を思ひて作らす歌四首」のうちの八五歌の類歌として収録されており、左注には、古事記と類聚歌林との相違を日本書記をベースに検証したことなどが左注に書かれている。歌ならびに左注についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その番外200531)」で紹介している。

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 「磐姫皇后、天皇を思ひて作らす歌四首」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1034~1037)で紹介している。

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春日大社神苑萬葉植物園の植物解説板によると、「『やまたづ』は各地の山地に見られる高さ6メートル程の落葉低木で、山に生えている『タヅノキ』を意味し、現在の『接骨木(ニワトコ)』のことを指す。『タヅノキ』は茎が柔らかいので、中に褐色の髄(ズイ)があるので、すなわち、中が『脱の木(ダツノキ)』という意味である。」と書かれている。

 

植物の名前も謂われ等を知り、歌との関わりなどみてくるとそれなりの面白さがある。万葉びとの植物に対する思い、目線などこれまで以上に関心を払って歌を観賞していきたい。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「春日大社神苑萬葉植物園 植物解説板」

★「農畜産業振興機構HP」