●歌は、「奥山のしきみが花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ」である。
●歌碑(プレート)は奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(38)にある。
●歌をみていこう。
◆於久夜麻能 之伎美我波奈能 奈能其等也 之久之久伎美尓 故非和多利奈無
(大原真人今城 巻二十 四四七六)
≪書き下し≫奥山のしきみが花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ
(訳)奥山に咲くしきみの花のその名のように、次から次へとしきりに我が君のお顔が見たいと思いつづけることでしょう、私は。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)しきみ【樒】名詞:木の名。全体に香気があり、葉のついた枝を仏前に供える。また、葉や樹皮から抹香(まつこう)を作る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)しくしく(と・に)【頻く頻く(と・に)】副詞:うち続いて。しきりに。(学研)
シキミの語源は「悪しき実」で、文字通り実に毒がある。秋になる実は、料理で使う「八角」に似ているため中毒を起こし時には死亡することもあるという。
四四七五、四四七六歌の題詞は、「廿三日集於式部少丞大伴宿祢池主之宅飲宴歌二首」<二十三日に、式部少丞(しきぶのせうじよう)大伴宿禰池主が宅(いへ)に集(つど)ひ飲宴(うたげ)する歌二首>である。
(注)二十三日:天平勝宝八年十一月二十三日
この歌ならびに四四七五歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その932)」で紹介している。
➡
大原真人今城については、五一九歌の題詞に手掛かりがある。この歌をみてみよう。
題詞は、「大伴女郎歌一首 今城王之母也今城王後賜大原真人氏也<大伴女郎(おほとものいらつめ)が歌一首 今城王が母なり。今城王は後に大原真人の氏を賜はる>」である。
(注)大伴女郎:後に大伴旅人の妻となり、筑紫で他界した女性か。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫 脚注より)
(注)今城王:父は未詳。家持と親交があった。(同上)
◆雨障 常為公者 久堅乃 昨夜雨尓 将懲鴨
(大伴女郎 巻四 五一九)
≪書き下し≫雨障(あまつつ)み常(つね)する君はひさかたの昨夜(きぞ)の夜(よ)の雨に懲(こ)りにけるかも
(訳)雨にさえぎられるといっては、いつも家に籠(こも)ってあられるあなたは、ゆうべ来られた時に降った雨に、すっかり懲(こ)りてしまわれたのではありますまいか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)あまつつみ【雨障】〘名〙:① 雨に降られて外に出られず、とじこもっていること。雨ごもり。② (「あまづつみ」とも) 雨から身を包むもの。雨具。 ⇒[補注](1)「万葉」例は「あまさはり」と訓む説もある。なお、四段動詞「あまつつむ」を想定する考えもある。
(2)②は、「つつみ」が障りの意であるという原義が忘れられて、「包み」への類推から生じたものと思われる。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典精選版)
大伴女郎は、旅人の大宰帥在任中の神亀五年(728年)初夏に亡くなったのである。
藤井一二氏は、その著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」(中公新書)のなかで、「この女性は家持・書持・家持の妹(留女之女郎)の実母ではない。彼女は旅人が家持らを連れて九州へ下った際に同行したが、短い期間のうちに病で亡くなったことになる。少年期における家持・書持らの実際の養育環境は旅人の奈良の『宅(いえ)』を中心としていたが、太宰府の期間を含む幼少時代の生活は、この義母に支えられていたとみて過言ではない。」と書かれている。
天平勝宝八年、九年は大伴家持がとてつもない歴史の渦に巻き込まれた年月であった。
遡る同5月3日に聖武太上天皇が亡くなり、間髪を入れず5月11日に藤原仲麻呂の讒言により大伴氏の長老格の大伴古慈斐(こしび)が朝廷を誹謗したとして拘禁されるのである。仲麻呂の、大伴氏や佐伯氏守旧派に対するあからさまな挑戦である。
そうこうしているうちに、大伴氏がよりどころにしていた橘諸兄が藤原仲麻呂一族に誣告(ぶこく)され自ら官を辞し、天平勝宝九年(757年)一月失意のうちに亡くなったのである。仲麻呂は、大伴氏や佐伯氏の人事面での意図的な「選別」を行い「分断」を図って行くのである。当然これに反発する勢力の頂点である橘諸兄の長子奈良麻呂は、大伴氏や佐伯氏等にはかり、仲麻呂打倒の計画をたてていたが、密告され、大伴氏や佐伯氏ら加担したものは根こそぎ葬られたのである。天平勝宝九年(757年)七月のことである。「橘奈良麻呂の変」である。
話を大原真人今城の四四七六歌に戻そう。
この歌の題詞によると、天平勝宝八年(756年)十一月二十三日に、式部少丞(しきぶのせうじよう)大伴宿禰池主が宅(いへ)に集(つど)ひ飲宴(うたげ)をしているのである。この集いに誰が参加したのかは不明であるが、反仲麻呂の話題が出ないはずはない。しかし、家持の歌どころか池主の歌も収録されていないのである。
幼馴染で、歌のやり取りも頻繁に行い万葉集にも数多く収録されているが、池主の名前はこれ以降万葉集から消え、さらに池主は奈良麻呂の変に連座し歴史からも名を消したのである。
家持が初めて越中の冬を迎え病に倒れた時に池主が励ましたことがあったが、どれだけ心強かったことであろう。このやり取りについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その959)」で紹介している。
➡
池主が、家持の「立山の賦」に対し和(こた)えた四〇〇三から四〇〇五の歌群(題詞は、「敬和立山賦一首幷二絶」<敬(つつ)しみて立山(たちやま)の賦(ふ)に和(こた)ふる一首幷(あは)せて二絶>)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その842)」で紹介している。
➡
池主が家持と政治路線の相違から袂を分かったのであるが、藤井一二氏は、その著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」(中公新書)の中で、「池主は、幼少期を含め生涯を通じて家持と集いを共にする機会も多く、その性格と歌作の才を最も評価しうる立場にあった。家持の苦悩する人間関係とともに、自らの歌作に留まらず大伴氏を中心とする一大歌集の編纂に向けて情熱を傾注する家持を目の当たりにし、池主自身が家持を政局に巻き込まない方向でそこから離れる道を選んだのだと推察する。」と書かれている。なぜかもやもや感が拭い去られる気持ちになる文言である。
また、大伴家持、大原真人今城が橘奈良麻呂らを中心とした藤原仲麻呂打倒の謀議に参加しなかった理由として藤井一二氏は、前出書の中で、「奈良麻呂側からの誘いの如何にかかわらず、藤原氏との姻戚関係を背景にして、とくに叔母・義母で家持に影響力をもつ大伴坂上郎女の意向が強く反映したのではないかと推測される。これによって家持と大伴氏の女性(大伴女郎)を母とする大原今城が参画することはなかった。それは大伴家持にとって、大伴池主や橘奈良麻呂らとの決別を意味したのである。」と書かれている。
大伴家持は、天平十年(738年)内舎人(うどねり)に任官され、右大臣橘諸兄に接近するようになり、同冬十月、長子の奈良麻呂の主催する宴に招かれたのである。この宴のメンバーには、大伴家持、弟の書持、歌友の大伴池主がいた。この時奈良麻呂は十七歳か十八歳。家持二十一歳である。この時は、誰一人「橘奈良麻呂の変」など微塵も想像していなかったであろう。
この宴の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて939」」で紹介している。
➡
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」