万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1089)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(49)―万葉集 巻七 一三五九

●歌は、「向つ峰の若桂の木下枝取り花待つい間に嘆きつるかも」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(49)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(49)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆向岳之 若楓木 下枝取 花待伊間尓 嘆鶴鴨

               (作者未詳 巻七 一三五九)

 

≪書き下し≫向つ峰(むかつを)の若楓(わかかつら)の木下枝(しづえ)とり花待つい間に嘆きつるかも 

 

(訳)向かいの高みの若桂の木、その下枝を払って花の咲くのを待っている間にも、待ち遠しさに思わず溜息がでてしまう。((伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)むかつを【向かつ峰・向かつ丘】名詞:向かいの丘・山。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞。上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)上二句(向岳之 若楓木)は、少女の譬え

(注)下枝(しづえ)とり:下枝を払う。何かと世話をする意。

(注)花待つい間:成長するのを待っている間

 

万葉集には、桂を詠んだ歌は三首収録されている。実際の桂を詠ったのは、一三五九歌であり、次の二首は想像上の月の桂を詠っているのである。こちらもみてみよう。

 

 

◆目二破見而 手二破不所取 月内之 楓如 妹乎奈何責

               (湯原王 巻四 六三二)

 

≪書き下し≫目には見て手には取らえぬ月の内の桂(かつら)のごとき妹(いも)をいかにせむ    

 

(訳)目には見えても手には取らえられない月の内の桂の木のように、手を取って引き寄せることのできないあなた、ああどうしたらよかろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)月の内の桂(かつら):月に桂の巨木があるという中国の俗信

 

 

◆黄葉為 時尓成 月人 楓枝乃 色付見者

                (作者未詳 巻十 二二〇二)

 

≪書き下し≫黄葉(もみち)する時になるらし月人(つきひと)の桂(かつら)の枝(えだ)の色づく見れば 

 

(訳)木の葉の色づく時節になったらしい。お月さまの中の桂の枝が色付いてきたところを見ると。((伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)つきひと【月人】名詞:月。▽月を擬人化していう語。(学研)

  

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板には、「・・・詠まれている桂の木は想像上の植物で月の世界にあるという中国の伝説上の木で。高さ百丈(約300m)を越える得体の知れない巨樹、それが美しく黄葉するので秋の月は澄み渡るという・・・。」と書かれている。

 

 桂が詠われている三首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その465)」でも紹介している。

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 月にある桂の木で作った楫で月の舟を漕ぐ若者を詠った歌もある。こちらもみてみよう。

        

◆天海 月船浮 桂楫 懸而滂所見 月人壮子

                 (作者未詳 巻十 二二二三)

 

≪書き下し≫天(あめ)の海に月の舟浮(う)け桂楫(かつらかじ)懸(か)けて漕(こ)ぐ見(み)ゆ月人壮士(つきひとをとこ)

 

(訳)天(あめ)の海に月の舟を浮かべ、桂の楫(かじ)を取り付けて漕いでいる。月の若者が。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)かつらかじ〔‐かぢ〕【桂楫】:月にあるという桂の木で作った櫂(かい)。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 (注)つきひとをとこ【月人男・月人壮士】名詞:月。お月様。▽月を擬人化し、若い男に見立てていう語。(学研)

 

 月人壮士を詠った歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1024)」で紹介している。

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「かつら」奈良市神功万葉の小径で撮影

 

 コロナ禍であるので、万葉歌碑を訪ねて遠出することがかなわないので、関連する史跡などを買いものなどで外出したついでに、意識的に見てこようと思う。

 

 6月30日は、奈良鴻池グランド近くのFコーヒーのパンを買いにいった帰りに元正天皇陵に行ってきた。

 

なぶんけんブログ「(91)恭仁京遷都と平城京遷都」(奈良文化財研究所HP)によると、「740年、聖武天皇平城宮を離れ、恭仁宮(京都府木津川市)に遷都しました。しかし、恭仁京の完成を待たず744年には難波宮大阪市)、翌745年には紫香楽宮滋賀県甲賀市)に都を移しました。有名な大仏建立の詔は紫香楽宮で出され、建立が始まります。ところが同年には都を再び平城宮に戻します。これを「平城還都」とよんでいます。

 なぜこのように頻繁な遷都が繰り返されたのでしょう? 理由はよくわかっていません。

 740年に九州で起こった戦乱(藤原広嗣の乱)がきっかけとなったとする説が有力です。また、当時、聖武天皇の周辺には伯母の元正太上天皇橘氏のグループ、妻の光明皇后を中心とする藤原氏の二つの有力勢力が存在していました。恭仁宮のある山城国橘氏の拠点であり、紫香楽宮のある近江国藤原氏の地盤です。このように、天皇を取り巻く有力氏族の力関係が遷都に強く影響したとする説もあります。」と書かれている。

 この五年は、「彷徨の五年」と呼ばれている。

 

 田辺福麻呂が「寧楽の故郷を悲しびて作る歌一首 幷(あは)せて短歌」(一〇四七歌ならびに一〇四八、一〇四九歌)を詠っているが、伊藤 博氏は、その著 「万葉集 二」(角川ソフィア文庫)のこの歌の脚注で、「天平十三年(741年)七月十日、元正天皇が新都久邇に移る折りの詠か。」と書かれている。

  

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その83改)」で紹介している。

 

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 元正天皇は、母である元明天皇から、皇太子首(おびと:後の聖武天皇)が幼少の為、譲位された二代に渡る女帝である。日本書紀の完成、養老律令の監修、三世一身法を発布など律令体制の強化を図った。陵墓は奈良市奈良坂町の奈保山西陵である。

 

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元正天皇 奈保山西陵

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元正天皇 奈保山西陵元正天皇案内板

 

元正天皇の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて953)で紹介している。

➡ 

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「なぶんけんブログ<(91)恭仁京遷都と平城京遷都>」 (奈良文化財研究所HP)