万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1093)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(53)―万葉集 巻十九 四一五九

●歌は、「磯の上のつままを見れば根を延へて年深くあらし神さびにけり」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(53)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(53)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆礒上之 都萬麻乎見者 根乎延而 年深有之 神佐備尓家里

              (大伴家持 巻十九 四一五九)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うへ)のつままを見れば根を延(は)へて年深くあらし神(かむ)さびにけり

 

(訳)海辺の岩の上に立つつままを見ると、根をがっちり張って、見るからに年を重ねている。何という神々しさであることか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)としふかし【年深し】( 形ク ):何年も経っている。年老いている。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)あらし 分類連語:あるらしい。あるにちがいない。 ※なりたち ラ変動詞「あり」の連体形+推量の助動詞「らし」からなる「あるらし」が変化した形。ラ変動詞「あり」が形容詞化した形とする説もある。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

題詞は、「過澁谿埼見巌上樹歌一首  樹名都萬麻」<澁谿(しぶたに)の埼(さき)を過ぎて、巌(いはほ)の上(うへ)の樹(き)を見る歌一首   樹の名はつまま>である。

 

この四一五九歌から四一六五歌までの歌群の総題は、「季春三月九日擬出擧之政行於舊江村道上属目物花之詠并興中所作之歌」<季春三月の九日に、出擧(すいこ)の政(まつりごと)に擬(あた)りて、古江の村(ふるえのむら)に行く道の上にして、物花(ぶつくわ)を属目(しょくもく)する詠(うた)、并(あは)せて興(きよう)の中(うち)に作る歌>である。

 

 この歌ならびに他の六首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その867)で紹介している。この歌碑の写真は、令和二年11月6日に富山県高岡市太田「つまま公園」で撮影したものである。

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 歌碑の碑文は言うに及ばず、設置されていた「碑文(歌意)」の説明板も腐食しており、撮影だけしておいた。

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歌碑の解説案内板

 写真を拡大してみると辛うじて読める。気になっていた、「つまま」の根が、海岸の松の根のようにごつごつと地表を這い「神々しい」雰囲気を持っているのかについて書かれているので、抜き書きしてみる。

「・・・この歌碑は、安政五年(一八五八)に太田村伊勢領の肝煎(きもいり)(村長)宗九郎(そうくろう)が建立したものとされ、高岡では、最も古い万葉歌碑である。宗九郎は、相当の学問があり万葉集にも関心が高く、特に、都萬麻(つまま)はタモノキであると推定して一本のタモノキとこの碑を置いたとされるが、永年の風食により碑の文字を判読するのは難しい。都萬麻は、クスノキ科の常緑高木で一般にもタモまたはタブノキと呼ぶイヌグスのこととされている。老木は根が盛り上がり神々しい姿である。このことから神聖な木として扱われることが多い・・・」

後半は、家持が越中国射水郡渋谷の崎で根を露出した見慣れない大樹に驚き、初めて聞く「都万麻」(つまま)の名に異郷の風土を感じ、この歌を詠い、眼前の光景が未来永劫に続くことを願って「都万麻」の歌を詠じたと書かれている。

 江戸時代に万葉歌碑を建立する人がいたことに驚かされる。

 

 

 これまでに巡った歌碑の中で、江戸、明治に建てられたものをあげて見る。

 

 「つまま」の歌碑より五十年ほど古く文化二年(1805年)に建てられた、新古今集の巻五、秋歌下に、題しらず柿本人麻呂の歌碑がある。この歌の元歌は、万葉集の巻十 二二一〇歌(柿本人麻呂歌集)「明日香川もみじ葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらむ」である。碑の裏に「文化2年歳次乙丑夏五月」と記されている。駒が谷の金剛輪寺の住職をしていた学僧の覚峰が文化二年(1805年)に建立したとある。

 場所は、大阪府羽曳野市駒が谷、竹内街道飛鳥川が交わるところの橋が月読橋であり、そこから50mほど上流にある。

 この歌、歌碑等についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(月読橋番外)」のなかで紹介している。

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滋賀県東近江市下麻生 山部神社境内には、山部赤人の「田子の浦ゆうち出て見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」の大きな歌碑とこじんまりとしたたたずまいの「春の野にすみれ摘みにと来しわれぞ 野をなつかしみ一夜寝にける」(巻八 一四二四歌)の歌碑がある。

 「山部赤人廟碑」の前にある。「山部赤人伝説」説明案内板によると、この一四二四歌の碑は明治十二年(1879年)に建てられたとある。

 これらに関しては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その417)」で紹介している。

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 古い万葉歌碑を検索してみると行田市HP(行田市教育委員会)に次のように書かれている。

「浅間塚の上に鎮座している前玉(さきたま)神社の石段の登り口に高さ2mの一対の石燈籠が建っています。元禄10年(1697)10月15日、地元の埼玉村の氏子一同が奉献したもので、2基の竿に「万葉集」の「小埼沼」と「埼玉の津」の歌が美しい万葉仮名で陰刻されています。旧跡「小埼沼」の碑より56年前の建立で、万葉集に掲載された歌の歌碑としては、全国でも最も古いものの一つです。」

 (注)「前玉(さきたま)」は「埼玉」の語源と言われている。

 元禄十年(1697年)に灯篭に万葉歌を刻して奉納する学識等には頭が下がる思いである。 

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前玉神社の灯篭 「行田市HP(行田市教育委員会)より引用させていただきました。」

 

「こまえ観光ガイドHP」に「『万葉集』巻14の東歌の一首「多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだ愛しき」が刻まれた歌碑で、松平定信の揮毫になります。文化2年(1805)に猪方村字半縄(現在の猪方四丁目辺り)に建てられましたが、洪水によって流失しました。大正時代に玉川史蹟猶予会が結成されると、松平定信を敬慕する渋沢栄一らと狛江村の有志らが協力して、大正13年(1924)、旧碑の拓本を模刻して新碑が建てられました。」とある。

 

 何時か機会を見つけて、これらの古い歌碑を見て周りたいものである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「碑文(歌意)」 (高岡市太田つまま公園歌碑説明案内板)

★「行田市HP(行田市教育委員会)」

★「こまえ観光ガイドHP」