万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1126)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(86)―万葉集 巻十七 三九二一

●歌は、「かきつはた衣の摺り付けますらをの着襲ひ猟する月は来にけり」である。

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(86)万葉歌碑<プレート>(大伴家持


 

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(86)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆加吉都播多 衣尓須里都氣 麻須良雄乃 服曽比獦須流 月者伎尓家里

                (大伴家持 巻十七 三九二一)

 

≪書き下し≫かきつはた衣(きぬ)に摺(す)り付けますらをの着(き)襲(そ)ひ猟(かり)する月は来にけり

 

(訳)杜若(かきつばた)、その花を着物に摺り付け染め、ますらおたちが着飾って薬猟(くすりがり)をする月は、今ここにやってきた。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)きそふ【着襲ふ】他動詞:衣服を重ねて着る。

 

 題詞は、「十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首」<十六年の四月の五日に、独り平城(なら)の故宅(こたく)に居(を)りて作る歌六首>である。

 

左注は、「右六首天平十六年四月五日獨居於平城故郷舊宅大伴宿祢家持作」<右の六首の歌は、天平十六年の四月の五日に、独り平城(なら)故郷(こきゃう)の旧宅(きうたく)に居(を)りて、大伴宿禰家持作る。>である。

題詞も、左注も「独り平城(なら)に居り」であり、左注の「平城(なら)故郷(こきゃう)の旧宅(きうたく)」と書かれていることから、安積親王の喪に服していたと考えられるのである。家持は、天平十年から十六年、内舎人(うどねり)であった。

(注)天平十六年:744年

(注)うどねり【内舎人】名詞:律令制で、「中務省(なかつかさしやう)」に属し、帯刀して、内裏(だいり)の警護・雑役、行幸の警護にあたる職。また、その人。「うとねり」とも。 ※「うちとねり」の変化した語。(学研)

 

 この歌を含む、全六首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その339)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 安積親王について、コトバンク 朝日日本歴史人物事典(㈱朝日新聞出版)に次のように書かれている。

 「没年:天平十六年閏正月十三日(744年3月1日) 生年:神亀五年(728年) 

奈良時代親王聖武天皇と夫人県犬養広刀自の皇子。天平十六年閏正月天平(744年)正月、聖武天皇の難波行幸に従ったが、脚気のために桜井頓宮(東大阪市六万寺町付近)から恭仁京に引き返し2日後に死去。『万葉集』に大伴家持の挽歌を収める。天平元年(729年)年藤原氏長屋王の変を起こして不比等の娘である光明子を皇后に立てることを強行したのは、神亀五年(728)年に、その前年光明子から生まれたばかりの皇太子が亡くなる一方、安積親王が生まれたためといわれる。天平十年阿倍内親王(孝謙天皇)が立太子していたが、安積親王はたったひとりの皇子であり、最も有力な皇位継承者だったので、藤原仲麻呂により暗殺されたとする説がある。<参考文献>岸俊男『藤原仲麻呂』,横田健一「安積親王の死とその前後」(『南都仏教』6号)(今泉隆雄)」

 

 

 天平十六年(744年)正月に、家持が親交を持っていた安積(あさか)親王が亡くなっている。藤原仲麻呂による謀殺とも言われている。

左大臣橘諸兄を中核とする勢力は難波宮遷都を強く主張、正月十一日聖武天皇難波宮行幸した。その行列にいた安積親王は、脚の病気のため久邇京へ戻り、二日後に死去したのである。

二月には、聖武天皇は、難波宮を都とする勅旨を発している。天平十七年五月再び平城京に遷都されるが、天平十二年九月の藤原広嗣の乱以降の五年間は恭仁京、紫香楽京、難波京と転々とし「彷徨の五年」と称されている。

 

 家持は、天平十六年二月三日に、同三月二十三日にそれぞれ挽歌三首を詠っている。

 

 題詞は、「十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舎人大伴宿祢家持作歌六首」<十六年甲申(きのえさる)の春の二月に、安積皇子(あさかのみこ)の薨(こう)ぜし時に、内舎人(うどねり)大伴宿禰家持が作る歌六首>である。

 

四七五から四七七歌の歌群の左注は、「右三首二月三日作歌」<右の三首は、二月の三日に作る歌>である。

四七八から四八〇歌の歌群の左注は、「右三首三月廿四日作歌」<右の三首は、三月の二十四日に作る歌>である。

 

四七五から四七七歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その183改)」で紹介している・

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 四七八から四八〇歌をみてみよう。

 

◆挂巻毛 文尓恐之 吾王 皇子之命 物乃負能 八十伴男乎 召集聚 率比賜比 朝獦尓 鹿猪踐起 暮獦尓 鶉▼履立 大御馬之 口抑駐 御心乎 見為明米之 活道山 木立之繁尓 咲花毛 移尓家里 世間者 如此耳奈良之 大夫之 心振起 劔刀 腰尓取佩 梓弓 靭取負而 天地与 弥遠長尓 萬代尓 如此毛欲得跡 憑有之 皇子乃御門乃 五月蝿成 驟驂舎人者 白栲尓 服取著而 常有之 咲比振麻比 弥日異 更経見者 悲呂可聞

   ▼「矢へんに鳥」→「鶉▼」で「とり」と読んでいる。

                   (大伴家持 巻三 四七八)

 

≪書き下し≫かけまくも あやに畏(かしこ)し 我(わ)が大君(おほきみ) 皇子(みこ)の命(みこと) もののふの 八十(やそ)伴(とも)の男(を)を 召し集(つど)へ 率(あども)ひたまひ 朝狩(あさがり)に 鹿猪(しし)踏(ふ)み越し 夕狩(ゆふがり)に 鶉雉(とり)踏み立て 大御馬(おほみま)の 口抑(おさ)へとめ 御心(みこころ)を 見(め)し明(あか)らめし 活道山(いくぢやま) 木立(こだち)の茂(しげ)に 咲く花も うつろひにけり 世間(よのなか)は かくのみならし ますらをの 心振り起し 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩(は)き 梓(あづさ)弓(ゆみ) 靫(ゆき)取り負(お)ひて 天地‘(あめつち)と いや遠長(とほなが)に 万代(よろづよ)に かくしもがもと 頼(たの)めりし 皇子(みこ)の御門(みかど)の 五月蝿(さばへ)なす 騒(さわ)く舎人(とねり)は 白栲(しろたへ)に 衣(ころも)取り着て 常(つね)なりし 笑ひ振舞(ふるま)ひ いや日異(ひけ)に 変(かは)らふ見れば 悲しきろかも

 

(訳)心にかけて思うのもまことに恐れ多い。わが大君、皇子(みこ)の命(みこと)が、たくさんの臣下たちを召し集め、引き連れられて、朝(あした)の狩には鹿や猪を追い立て、夕(ゆうべ)の狩には鶉(うずら)や雉(きじ)を飛び立たせ、そしてまた大御馬の手綱をひかえ、あたりを眺めて御心を晴らされた活道の山よ、ああ、皇子亡きままに、その山の木々も伸び放題に伸び、咲き匂うていた花もすっかり散り失せてしまった。世の中というものはこんなにもはかないものでしかないらしい。ますらおの雄々しい心を振り起し、剣太刀を腰に帯び、梓弓(あずさゆみ)を手に靫(ゆき)を背に負って、天地とともにいよいよ遠く久しく、万代(よろずよ)までもこうしてお仕えしたいものだと、頼みにしてきたその皇子の御殿の、まるで五月蝿(さばえ)のように賑(にぎ)わしくお仕えしていた舎人たちは、今や白い喪服を身にまとうて、いつもの笑顔や振る舞いが日一日と変わり果てていくのを見ると、悲しくて悲しくてしかたがない。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)かけまくも 分類連語:心にかけて思うことも。言葉に出して言うことも。 ⇒ なりたち 動詞「か(懸)く」の未然形+推量の助動詞「む」の古い未然形「ま」+接尾語「く」+係助詞「も」(学研)

(注)やそとものを【八十伴の緒・八十伴の男】名詞:多くの部族の長。また、朝廷に仕える多くの役人。(学研)

(注)活道山:久邇京近くの山

(注)さばへなす【五月蠅なす】分類枕詞:夏の初めに群がり騒ぐはえのようにの意から「騒く」「荒ぶ」などにかかる。(学研)

(注)ひにけに【日に異に】分類連語:日増しに。日が変わるたびに。(学研)

(注)ろ 間投助詞:《接続》①は終止した文に付く。②は体言、形容詞の連体形に付く。①〔感動〕…よ。②〔感動〕…よ。…なあ。▽「ろかも」の形で用いる。 ※上代語。

⇒ 参考 ①を終助詞とする説もある。また、東歌に多いことから、東国方言とも考えられている。現代語の「見せろ」などの命令形語尾の「ろ」はこの「ろ」が残ったものという。②を終助詞・接尾語とする説もある。(学研)ここでは②の意

 

 続いて短歌をみてみよう。

 

◆波之吉可聞 皇子之命乃 安里我欲比 見之活道乃 路波荒尓鷄里

                 (大伴家持 巻三 四七九)

 

≪書き下し≫はしきかも皇子(みこ)の命(みこと)のあり通(がよ)ひ見(め)しし活道(いくぢ)の道は荒れにけり

 

(訳)ああ、わが皇子の命がいつも通われてはご覧になった活道、その山の道は、今はもうすっかり荒れ果ててしまった。(同上)

(注)はし【愛し】形容詞:愛らしい。いとおしい。慕わしい。 ※上代語。(学研)

(注)みこと【命・尊】名詞:神・天皇、または、目上の人の尊敬語。▽「…のみこと」の形で用いる。 ※「み」は接頭語。(学研)

 

 

◆大伴之 名負靭帶而 萬代尓 憑之心 何所可将寄

              (大伴家持 巻三 四八〇)

 

≪書き下し≫大伴(おほとも)の名負(お)ふ靫(ゆき)帯(お)びて万代(よろづよ)に頼みし心いづくか寄せむ

 

(訳)靫負(ゆげい)の大伴と名の知られるその靫(ゆき)を身に着けて、万代までもお仕えしようと頼みにしてきた心、この心を今やいったいどこに寄せたらよいのか。(同上)

(注)ゆき【靫・靱】名詞:武具の一種。細長い箱型をした、矢を携行する道具で、中に矢を差し入れて背負う。 ※中世以降は「ゆぎ」。(学研)

(注の注)ゆげひ【靫負】名詞:①上代天皇の親衛隊として宮廷諸門の警固に当たった者。律令制のもとでは、衛府(えふ)およびその武官をいう。②「靫負の尉(じよう)」の略。 

⇒ 「ゆき(靫)お(負)ひ」の変化した語。古くは「ゆけひ」(学研)

 

聖武天皇の夫人、藤原光明子、後の孝謙天皇藤原仲麻呂を中心とする藤原氏聖武天皇橘諸兄を支持していた大伴氏等との対立の渦は容赦なく家持を巻き込んでいくのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 朝日日本歴史人物事典(㈱朝日新聞出版)」