万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1127)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(87)―万葉集 巻十六 三八二五

●歌は、「食薦敷き青菜煮て来む梁に行縢懸けて休めこの君」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(87)万葉歌碑<プレート>(長忌寸意吉麻呂)

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(87)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「詠行騰蔓菁食薦屋梁歌」<行縢(むかばき)、蔓菁(あをな)、食薦(すごも)、屋梁(うつはり)を詠む歌>である。

 

◆食薦敷 蔓菁▼将来 樑尓 行騰懸而 息此公

               (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二五)

※           ▼は「者」に下に「火」=「煮」

 

≪書き下し≫食薦(すごも)敷き青菜煮(に)て来(こ)む梁(うつはり)に行縢(むかばき)懸(か)けて休めこの君

 

(訳)食薦(すごも)を敷いて用意し、おっつけ青菜を煮て持ってきましょう。行縢(むかばき)を解いてそこの梁(はり)に引っ懸(か)けて、休んでいて下さいな。お越しの旦那さん。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)すごも 【簀薦・食薦】名詞:食事のときに食膳(しよくぜん)の下に敷く敷物。竹や、こも・いぐさの類を「簾(す)」のように編んだもの。(学研)

(注)樑(うつはり):家の柱に懸け渡す梁

(注)むかばき【行縢】名詞:旅行・狩猟・流鏑馬(やぶさめ)などで馬に乗る際に、腰から前面に垂らして、脚や袴(はかま)を覆うもの。多く、しか・くまなどの毛皮で作る。

 

 この歌は、「長忌寸意吉麻呂が歌八首」のうちの一首である。この八首を含む長忌寸意吉麻呂の歌十四首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その987)」で紹介している。

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行縢(むかばき)、蔓菁(あをな)、食薦(すごも)、屋梁(うつはり)を巧みに詠み込み「休めこの君」と誘っている物名歌である。

 

物名歌ではないが、次の歌をみてみよう。

 

◆垣越 犬召越 鳥獦為公 青山 葉茂山邊 馬安公

                                   (作者未詳 巻七 一二八九)

 

≪書き下し≫垣越(かきご)しに犬呼び越(こ)して鳥猟(とがり)する君 青山の茂き山辺(やまへ)に馬休め君

 

(訳)垣根の外から犬を呼び返して、まだ鷹猟(たかがり)をお続けになる旦那さん。まあ、そうせかされず、青山の葉の茂ったこの山辺で馬をお休めになりなさいよ、旦那さん。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)とがり【鳥狩り】名詞:鷹(たか)を使って鳥を捕らえること。「とかり」とも。(学研)

 

 女の家の垣根の中に迷い込んだ犬を呼び戻している鷹狩をしている男に、人目に付かないこの青々とした山辺で馬を休め、あなたもお休みになったらと誘っている歌である。

 狩をしている男が、女の獲物になったかどうかはうかがい知れないが、想像をかきたてる歌である。

 形は旋頭歌である。

 

 鷹狩と言えば、家持も越中時代、鷹を飼って鷹狩に興じていた。鷹にまつわる家持の歌をみてみよう。

 

 四〇一一から四〇一五歌は、題詞「放逸(のが)れたる鷹(たか)を思ひて夢(いめ)見(み)、感悦(よろこ)びて作る歌一首 幷(あは)せて短歌」である。

 飼っていた鷹を「狂(たぶれ)たる醜(しこ)つ翁(おきな)」が鷹狩と称して連れ出したが、鷹は「二上(ふたがみ)の山飛び越え雲隠り翔(かけ)り去(い)にき」。

それを聞いた家持は、(憤りを隠した)悲しみと、夢に間もなく見つかるとのお告げがあったという喜びという(恨みを隠した)歌を詠っているのである。

 

 家持は、鄙びた越中で、鷹狩に興じ気分転換を図っていたのである。逃げた鷹の名前は「大黒」というが、しばらくして「白き大鷹」を飼っていたようである。

この鷹について詠んだ歌(四一五四、四一五五歌)は、題詞は、「八日詠白太鷹歌一首幷短歌」<八日に、白き大鷹(おほたか)を詠(よ)む歌一首幷(あは)せて短歌>である。

(注)おほたか【大鷹】名詞:①雌の鷹。雄よりも体が大きく、「大鷹狩り」に用いる。②「大鷹狩り」の略。雌の鷹を使って冬に行う狩り。(学研)

 

  「鷹狩」は、社交の場としても活用していたようである。

 

 ◆伊波世野尓 秋芽子之努藝 馬並 始鷹獏太尓 不為哉将別

               (大伴家持 巻十九 四二四九)≪

 

≪書き下し≫石瀬野(いはせの)に秋萩(あきはぎ)しのぎ馬並(な)めて初(はつ)鳥猟(とがり)だにせずや別れむ

 

(訳)石瀬野で、秋萩を踏みしだき、馬を勢揃いしてせめて初鳥猟だけでもと思っていたのに、それすらできずにお別れしなければならないのか。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)石瀬野:富山県高岡市庄川左岸の石瀬一帯か。

 

(注)しのぐ【凌ぐ】他動詞①押さえつける。押しふせる。②押し分けて進む。のりこえて進む。③(堪え忍んで)努力する。(学研) ここでは②の意

(注)鷹獏>たかがり【鷹狩り】名詞:飼い慣らした鷹・隼(はやぶさ)を使って鳥や小さな獣を捕らえさせる狩猟。冬期に行うのを「大鷹狩り」、秋期に行うのを「小鷹狩り」という。「鷹野(たかの)」とも。(古語)

 

 四二四八、四二四九歌の題詞は、「以七月十七日遷任少納言 仍作悲別之歌贈貽朝集使掾久米朝臣廣縄之舘二首」<七月の十七日をもちて、少納言(せうなごん)に遷任(せんにん)す。よりて、悲別の歌を作り、朝集使掾(てうしふしじよう)久米朝臣廣縄(くめのあそみひろつな)が館(たち)に贈(おく)り貽(のこ)す二首>である。

 

四一五四、四一五五歌について、四〇一一から四〇一五歌についてはさわりを、また四二四九歌についてもブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1096)」で紹介している。

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「馬並(な)めて初(はつ)鳥猟(とがり)」(四二四九歌)とあるように、鷹狩は、それなりの規模で行われていたことが分かる。

 

大規模な狩となると「み狩」がある。

(注)みかり【御狩】〘名〙: (「み」は接頭語)① 天皇や皇子などの狩することを敬っていう語。② 狩の美称。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典精選版)

 

 一方、「薬猟(くすりがり)」という言葉もある。

 宇陀市HP「うだ記紀・万葉」の「推古天皇の薬猟」に次のように書かれている。

 

「『日本最初の薬猟(くすりがり)』 『日本書紀』推古19年(611)5月条に「夏五月の五日に、菟田野に薬猟す。鶏明時を取りて、藤原池の上に集ふ。会明を以て乃ち往く。(以下、略)」といった記載があります。菟田野(うだのの)は宇陀野(宇陀の大野)のことであり、現在の奈良県宇陀市大宇陀迫間や中庄周辺の『阿騎野』のことを指すと考えられます。この記載は、史料で確認できるわが国最初の薬猟の記録でもあります。薬猟の際、男性は薬効の大きい鹿の角をとり、女性は薬草を摘みました。

薬猟の源流は、高句麗王室が3月3日に楽浪の丘で行った鹿・猪を狩る行事と古代中国の長江中流域で5月5日に行われた雑薬を摘む民間行事にあり、推古朝には、源流が異なる行事を併せて壮麗な宮廷行事としたとされています。菟田野への薬猟では、冠位十二階にもとづく冠をつけ、冠と同色の服を着用し、冠には飾りを用いました。このような服飾は、高句麗と類似しており、薬猟の源流とも深く係わっています。

推古19年(611)5月5日の宇陀野での薬猟に続き、翌20年5月5日には羽田で薬猟が行われています。以後、『日本書紀』には、推古22年と天智7年(668)の5月5日に薬猟を行ったと記載されるのみですが、宮廷儀礼として毎年5月5日には、薬猟が行われていたのでしょう。」

(注)くすりがり【薬狩り】名詞:陰暦四、五月ごろ、特に五月五日に、山野で、薬になる鹿(しか)の若角や薬草を採取した行事。[季語] 夏。(学研)

 

 「薬猟」という、ある意味大陸から輸入した、不老長寿の薬にするために男は鹿の袋角(出始めの角)を取り、女は薬草を採るという宮廷の年中行事において、天皇は狩りをするので「み狩」という言葉を使ったのである。

 

「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る(巻一 二〇)」の題詞「天皇遊獦蒲生野時額田王作歌」<天皇(すめらみこと)、蒲生野(かまふの)の遊狩(みかり)したまふ時に、額田王が作る歌>に「遊獦(みかり)」と記されているが、

年中行事としてレクリエーション化していたのであろう。歌の書き手が「遊獦」と記したのは、文字通り遊び心のなせる業であったのかもしれない。

(注)天皇天智天皇

 

 二〇、二一歌の左注にも「縦猟(みかり)」という言葉が見られる。

 

左注は、「紀日 天皇七年丁卯夏五月五日縦獦於蒲生野于時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉従焉」<紀には「天皇の七年丁卯(ひのとう)の夏の五月の五日に、蒲生野(かまふの)に縦猟(みかり)す。時に大皇弟(ひつぎのみこ)・諸王(おほきみたち)、内臣(うちのまへつかさ)また群臣(まへつきみたち)、皆悉(ことごと)に従(おほみとも)なり」といふ>である。 

 

額田王ならびに大海人皇子の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その234改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)

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巻一 四五から四九の歌群の題詞は、「軽皇子宿干安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌」<軽皇子、安騎(あき)の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌>である。

 四九歌に「御﨟(みかり)」という言葉が使われている。

 

 「み狩」という言葉が使われている歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1064)」で紹介している。

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「鹿」を女に喩え、捕まえようと気負いこんでいる男を揶揄した歌があるのでこれもみてみよう。

 

◆江林 次完也物 求吉 白栲 袖纒上 完待我背

                  (作者未詳 巻七 一二九二)

 

≪書き下し≫江林(えばやし)に臥(ふ)せる鹿(しし)やも求むるによき 白栲(しろたへ)の袖巻き上げて鹿(しし)待つ我(わ)が背(せ)

 

(訳)入江の林に伏している鹿は捕えやすいのであろうか、そんなはずはないのにさ。それなのに、ここぞとばかり袖をたくし上げて鹿を待ち構えているよ、このお人は。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)江林;入江の林。逢引の場所を匂わす。

(注)完:「しし」と読む。

(注の注)しし:肉を意味する古語で、「宍」「肉」の字をあて、食肉や人体の肉をさす。また「獣」の字をあてて、食肉の供給源であったけだものを総称し、なかでもシカとイノシシをさすことが多いが、これは、とくにその肉が好んで食されたことによるものと考えられる。シカは「かのしし」ともいい、イノシシともども「しし」の語と密接な関係があるが、このことは『古語拾遺』(807成立)に、大国主命(おおくにぬしのみこと)が、骨休めとして農民にウシの肉をふるまい、大歳神(おおとしのかみ)の怒りを買う話が伝えられているように、仏教の殺生禁断の教えが日本人の肉食の習慣、とくに家畜の肉を食することを禁じたため、シカやイノシシが重要な食肉の供給源となった結果とみられる。[宇田敏彦](コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>)

 

 想像するだけで滑稽なシーンが目に浮かぶ。これが万葉集の歌かと目を疑ったのである。万葉集の裾野の広さよ。

 

 

春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板には、「あをな」について、「『蔓菁(カブ)』は中国原産のいわゆる菜の花。カブラ(カブ・カブラ)は『スズナ』と呼ばれる春の七草の一つで、同じく春の七草の一つにある『スズシロ』は大根のことを言う。平安時代に書かれた『新撰字鏡』が『蔓』と言う字にカブの意味を与えていることから古代の人々がそう認識していたと考えられ、呼称を『あをな』と呼んだ。わが国にもっとも早く渡来した野菜で焼畑などで耕作された。現代のカブは白くて丸い甘い根が印象的であるが、昔のカブは全く異なる姿形をしていたらしく、大根より細くしかも苦く不味かったようだ。ゆえに、主に食べられていたのは葉っぱの方であった。(後略)」と書かれている。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典精選版」

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>」

★「うだ記紀・万葉の『推古天皇の薬猟』」 (宇陀市HP)