万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1133)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(93)―万葉集 巻八 一六三〇

●歌は、「高円の野辺のかほ花面影に見えつつ妹は忘れかねつも」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(93)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(93)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆高圓之 野邊乃容花 面影尓 所見乍妹者 忘不勝裳

              (大伴家持 巻八 一六三〇)

 

≪書き下し≫高円(たかまと)の野辺(のへ)のかほ花(ばな)面影(おもかげ)に見えつつ妹(いも)は忘れかねつも

 

(訳)高円の野辺に咲きにおうかお花、この花のように面影がちらついて、あなたは、忘れようにも忘れられない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)かほ花:「かほばな」については、カキツバタオモダカムクゲアサガオヒルガオといった諸説がある。

 

この歌は、長歌(一六二九歌)の反歌である。題詞は、「大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌一首并短歌」<大伴宿禰家持、坂上大嬢に贈る歌一首并(あは)せて短歌>である。

 

 長歌のほうもみてみよう。

 

◆叩ゝ 物乎念者 将言為便 将為ゝ便毛奈之 妹与吾 手携而 旦者 庭尓出立 夕者床打拂 白細乃 袖指代而 佐寐之夜也 常尓有家類 足日木能 山鳥許曽婆 峯向尓 嬬問為云 打蝉乃 人有我哉 如何為跡可 一日一夜毛 離居而 嘆戀良武 許己念者 胸許曽痛 其故尓 情奈具夜登 高圓乃 山尓毛野尓母 打行而 遊徃杼 花耳 丹穂日手有者 毎見 益而所思 奈何為而 忘物曽 戀云物呼

               (大伴家持 巻八 一六二九)

 

≪書き下し≫ねもころに 物を思へば 言はむすべ 為(せ)むすべもなし 妹(いも)と我(あ)れと 手たづさはりて 朝(あした)には 庭に出(い)で立ち 夕(ゆうへ)には 床(とこ)うち掃(はら)ひ 白栲(しろたへ)の 袖(そで)さし交(か)へて さ寝(ね)し夜や 常にありける あしひきの 山鳥(やまどり)こそば 峰(を)向(むか)ひに 妻どひすといへ うつせみの 人なる我れや 何(なに)すとか 一日(ひとひ)一夜(ひとよ)も 離(さか)り居(ゐ)て 嘆き恋ふらむ ここ思へば 胸こそ痛き そこ故(ゆゑ)に 心なぐやと 高円(たかまど)の 山にも野にも うち行きて 遊びあるけど 花のみ にほひてあれば 見るごとに まして偲はゆ いかにして 忘れむものぞ 恋といふものを

 

(訳)つくづくと物を思うと、何と言ってよいか、どうしてよいか、処置がない。あなたと私と手と手を交わして、朝方には庭に下り立ち、夕方には寝床を払い清めては、袖を交わし合って共寝した夜が、いったいいつもあったであろうか。あの山鳥なら、谷を隔てて向かいの峰に妻どいをするというのに、この世の人である私は、何だってまあ一日一夜を離れているだけで、こんなにも嘆き慕うのであろうか。このことを思うと胸が痛んでならない。それで心のなごむこともあるかと、高円の山にも野にも、馬に鞭打って出かけて行き遊び歩いてみるけれど、花ばかりがいたずらに咲いているので、それを見るたびにいっそう思いがつのる。いったいどのようにしたら忘れることができるであろうか。この苦しい恋というものを。(同上)

(注)ねもころに>ねもころなり【懇なり】形容動詞:手厚い。丁重だ。丁寧だ。入念だ。「ねもごろなり」とも。 ※「ねんごろなり」の古い形 (Weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)うちはらふ【打ち払ふ】他動詞:①さっと払いのける。②除き去る。③払い清める。清潔にする。(学研)ここでは③の意

(注)さね【さ寝】名詞:寝ること。特に、男女が共寝をすること。※「さ」は接頭語。(学研)

(注)やまどり【山鳥】名詞:野鳥の名。きじに似ている。 ⇒参考 やまどりは昼は雌雄が一緒にいるが、夜は峰を隔てて別々に寝るという言い伝えから「独り寝」することにいい、また、雄の尾羽の長いところから「長い」こと、特に「夜が長い」ことの形容に用いる。

(注)なにすとか【何為とか】分類連語;どうして…か(いや、…ない)。▽反語の意を表す。(学研)

(注)なぐ【和ぐ】自動詞:①心が穏やかになる。なごむ。②風がやみ海が静まる。波が穏やかになる。(学研)ここでは①の意

 

 この歌の作られた時期は明確に書かれていない。前の一六二七、一六二八歌は左注に「右の二首は、天平十二年庚辰(かのえたつ)の夏の六月に往来す」とある。

 次の歌(一六三一歌)の題詞は、「大伴宿禰家持、安倍女郎(あへのいらつめ)に贈る歌一首で」であり、「今造る久邇(くに)の都に秋の夜(よ)の長きにひとり寝(ね)るが苦しさ」であるので、久邇京にいることは間違いない。

また続く一六三二歌の題詞も「大伴宿禰家持、久邇(くに)の京より、寧楽(なら)に宅(いへ)に留(とど)まれる坂上大嬢に贈る歌一首」とあるので、久邇京で作っていることは間違いがないだろう。

 聖武天皇が、天平十二年庚辰(かのえたつ)九月の藤原広嗣の乱をきっかけに十月二十九日に平城京をあとにし、伊勢・美濃・近江を経て十二月十五日山背国(やましろのくに)相楽郡(かがらのこほり)甕原(みかのはら)離宮に至り、ここを都としたのである。これが久邇京である。

 この間、家持は内舎人(うどねり)として従い行く先々の行宮で歌を残している。

 一〇二九から一〇三七歌に久邇京に至るまでの、聖武天皇や家持他の歌が収録されている。これらについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その184)」で紹介している。

 ➡ こちら184

 

 一〇二九歌については、三重県津市白山町聖武天皇関宮址とともに歌碑も紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 一〇三〇歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その423、424)」で三重県四日市市松原町 聖武天皇社とともに紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 一〇三一歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その425)」で三重県四日市市大宮町 志氐神社とともに紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 以上の様にみてくると、一六二九、一六三〇歌は、天平十二年六月から十二月の間ということになる。

 家持が大嬢と結婚したのは天平十一年秋八月ころと言われている。

或る本には、一六二九、一六三〇歌を作ったころ家持は久邇京におり多忙のために妻との時間もとれない嘆きの歌と書かれていた。

 はじめはそう考えていたが、久邇京でなく、平城京にいる頃の歌ではないかと考えている。かほばなの花期が6~8月ということと、「・・・そこ故(ゆゑ)に 心なぐやと 高円(たかまど)の 山にも野にも うち行きて 遊びあるけど 花のみ にほひてあれば 見るごとに まして偲はゆ・・・」と詠っているので、久邇京から高円の山や野に気分転換に遊びに行くとなると、大嬢のいる寧楽の家(佐保あたり)を通り越して、わざわざ高円の方まで行くことはないはずである。

 まだまだ結婚して間がないのに内舎人として高円の離宮へお供することが多く、一六二九歌のように、妻との時間がとれない嘆きとなると、妻大嬢への思いは相当深いものである。 

 平城京勤務で佐保は目の前であるが高円離宮へお供することで「一日(ひとひ)一夜(ひとよ)も 離(さか)り居(ゐ)て 嘆き恋ふらむ」と嘆いているのではと考えられる。

超愛妻家的雰囲気であるが、もっとも一六三一歌の安倍女郎(あへのいらつめ)への歌も家持の女性遍歴の一端とすればなんとも言えないところである。

 

 

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「かほばな」について、「『昼顔(ヒルガオ)』はつる性の多年草で、茎は長く伸び雑草などにからみ付いて立ちのぼり、淡紅色の花が咲く。朝顔よりひと回り小さく、朝に開花し、夕方にはしぼんでしまう一日花。

 『かほばな』にはカキツバタムクゲアサガオオモダカ説など諸説があるが、今日では『昼顔(ヒルガオ)』が通説である。(後略)」と書かれている。(花期は6~8月)

 

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かほばな(ヒルガオ) 「草花図鑑(野田市HP)」より引用させていただきました」

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「草花図鑑(野田市HP)」