万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1139)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(99)―万葉集 巻一 二〇

●歌は、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(99)万葉歌碑<プレート>(額田王

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(99)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

             (額田王 巻一 二〇)

 

≪書き下し≫あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る

 

(訳)茜(あかね)色のさし出る紫、その紫草の生い茂る野、かかわりなき人の立ち入りを禁じて標(しめ)を張った野を行き来して、あれそんなことをなさって、野の番人が見るではございませんか。あなたはそんなに袖(そで)をお振りになったりして。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)あかねさす【茜さす】分類枕詞:赤い色がさして、美しく照り輝くことから「日」「昼」「紫」「君」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)むらさき【紫】名詞:①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。古くから「武蔵野(むさしの)」の名草として有名。[季語] 夏。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。(学研)

(注の注)むらさきの【紫野】名詞:「むらさき①」を栽培している園。(学研)

(注)しめ【標・注連】名詞:①神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。②「標縄(しめなは)」の略。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その258,259)」で東近江市糠塚町 万葉の森船岡山 蒲生野狩猟レリーフ横の歌碑ならびに船岡山山頂付近の歌碑とともに紹介している。

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 額田王の歌は万葉集には十二首(四首については疑問視する説もある)収録されている。

 十二首すべてをみてみよう。

 

標題は、「明日香川原宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇」<明日香(あすか)の川原(かはら)の宮(みや)に天の下知らしめす天皇(すめらみこと)の代 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)>である。

(注)川原:奈良県高市郡明日香村川原

(注)天豊財重日足姫天皇:三十五代皇極天皇

 

題詞は、「額田王歌 未詳」<額田王(ぬかたのおほきみ)が歌 いまだ詳らかにあらず>である。

 

◆金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念

                 (額田王 巻一 七)

 

≪書き下し≫秋の野のみ草(くさ)刈り葺(ふ)き宿れりし宇治(うぢ)の宮処(みやこ)の仮廬(かりいほ)し思ほゆ

 

(訳)秋の野のみ草を刈り取って屋根を葺き、旅宿りをした宇治の宮、あの宮どころの、仮の廬(いおり)が思われる。(同上)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その227改)」で紹介している。

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◆熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

                  (巻一 八)

 

≪書き下し≫熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗(の)りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな

 

(訳)熟田津から船出をしようと月の出を待っていると、待ち望んでいたとおり、月も出(で)、潮の流れもちょうどよい具合になった。さあ、今こそ漕(こ)ぎ出そうぞ。(同上)

(注)熟田津:松山市和気町・堀江町付近。

(注)かなふ【適ふ・叶ふ】自動詞:適合する。ぴったり合う。(学研)

 

左注は、「右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮 後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船西征 始就于海路 庚戌御船泊于伊豫熟田津石湯行宮 天皇御覧昔日猶存之物 當時忽起感愛之情 所以因製歌詠為之哀傷也 即此歌者天皇御製焉 但額田王歌者別有四首」<右は、山上憶良大夫が類聚歌林に検すに、曰(い)はく、「飛鳥(あすか)岡本の宮に天の下知らしめす天皇の元年己丑(うちのとうし)の、九年丁酉(ひのととり)の十二月己巳(つちのとみ)の朔(つきたち)の壬午(みづのえうま)に、天皇・大后、(おほきさき)、伊予(いよ)の湯の宮に 幸(いでま)す。後(のち)の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の七年辛酉(かのととり)の春の正月丁酉(ひのととり)の朔(つきたち)の壬寅(みづのえとら)に、御船西つかたに征(ゆ)き、始めて海路(うみぢ)に就(つ)く。 庚戌(かのえいぬ)に、御船伊予の熟田津の石湯(いはゆ)の行宮(かりみや)に泊(は)つ。 天皇、昔日(むかし)のなほし存(のこ)れる物を御覧(みそこなは)して、その時にたちまち感愛の情(こころ)を起したまふ。この故(ゆゑ)によりて歌詠(みうた)を製(つく)りて哀傷(かな)しびたまふ」といふ。すなはち、この歌は天皇の御製なり。ただし、額田王が歌は別に四首あり>である。

(注)飛鳥(あすか)岡本の宮に天の下知らしめす天皇:三四代舒明天皇

(注)壬午;舒明九年(637年)十二月十四日。

(注)壬寅:斉明七年(661年)正月六日。

(注)庚戌:正月十四日

(注)泊(は)つ:斉明天皇疲労により道後温泉で静養か

(注)昔日:亡き夫君舒明と来た昔日。

(注)歌詠(みうた)を製(つく)りて哀傷(かな)しびたまふ:類聚歌林には、斉明天皇の哀傷歌を載せ、滞在中の歌、さらに船出宣言の歌を載せていたらしい。

(注)天皇の御製:額田王が「熟田津(にきたつ)に・・・」の歌を代作したのでこの伝えがある。

(注)別に四首あり;この四首は今に伝わらず不明となっている。

 

 

◆莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本

              (額田王 巻一 九)

 

≪書き下し≫莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣我(わ)が背子がい立たせりけむ厳橿(いつかし)が本(もと)

 

(訳)静まり返った浦波をはるかに見放(みさ)けながら、我が背子(せこ)有間皇子(ありまのみこ)がお立ちになったであろう、この聖なる橿の木の根本よ。(同上)

(注)上二句「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」は定訓がない。伊藤氏は、澤瀉久孝氏の試訓「静まりし浦波見放け」を支持されている。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その492)」で紹介している。

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◆冬木成 春去来者 不喧有之 鳥毛来鳴奴 不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曽思努布 青乎者 置而曽歎久 曽許之恨之 秋山吾者

               (額田王 巻一 十六)

 

≪書き下し≫冬こもり 春さり来(く)れば 鳴かずありし 鳥も来(き)鳴きぬ 咲かざずありし 花も咲けれど 山を茂(し)み 入りにも取らず 草深(くさふか)み 取りても見ず 秋山の 木(こ)の葉を見ては 黄葉(もみち)をば 取りにそ偲(しの)ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨(うら)めし 秋山我(わ)れは

 

(訳)冬木も茂る春がやって来ると、それまでそんなに鳴かなかずにいた鳥も来て鳴く。咲かずにいた花も咲く、だが、山が茂っているのでわけ入ってとることもできない。草が深いので折り取って見ることもできない。秋山の木の葉を見るについては、色づいた葉を手に折り取って賞美することができる。ただし、青い葉、それをそのままに捨て置いて嘆息する。その点が残念です。しかし、何といっても秋山です。私どもは。(同上)

(注)ふゆごもり【冬籠り】名詞:寒い冬の間、動植物が活動をひかえること。また、人が家にこもってしまうこと。[季語] 冬。 ※古くは「ふゆこもり」。

ふゆごもり【冬籠り】分類枕詞:「春」「張る」にかかる。かかる理由は未詳。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その418)」で紹介している。

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◆味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數ゝ毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也

                (額田王 巻一 一七)

 

≪書き下し≫味酒(うまさけ) 三輪(みわ)の山(やま) あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈(くま) い積(つ)もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(みさ)けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや

 

(訳)神々しき三輪の山よ、この山を、青丹(あおに)よし奈良の山の、山の間に隠れるまでも、道の隈々(くまぐま)が幾曲りに重なるまでも、充分に見ながら行きたいのに、いくたびも見はるかしたい山なのに、つれなくも、雲が隠したりしてよいものか。(同上)

(注)奈良山:奈良市街地北部一帯の丘陵。平城宮跡の北方を佐紀丘陵、その東を佐保丘陵とよび、奈良坂が通じる。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)くま【隈】名詞:①曲がり角。曲がり目。②(ひっこんで)目立たない所。物陰。③辺地。片田舎。④くもり。かげり。⑤欠点。短所。⑥隠しだて。秘密。⑦くまどり。歌舞伎(かぶき)で、荒事(あらごと)を演じる役者が顔に施す、いろいろな彩色の線や模様。(学研)ここでは①の意

(注)つばらなり【委曲なり】形容動詞:詳しい。十分だ。存分だ。つばらに(学研)

(注)しばしば【廔廔】副詞:たびたび。何度も。(学研)

(注)みさく【見放く】他動詞:①遠くを望み見る。②会って思いを晴らす。 ※「放く」は遠くへやる意。上代語。(学研)

 

 

三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南敏 可苦佐布倍思哉

                (額田王 巻一 一八)

 

≪書き下し≫三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠そふべしや

 

(訳)ああ、三輪の山、この山を何でそんなにも隠すのか。せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。隠したりしてよいものか。よいはずがない。(同上)

(注)しかも【然も】分類連語:①そのようにも。②〔下に「…か」を伴って〕そんなにも(…かなあ)。 ※「も」は係助詞。(学研)ここでは②の意

(注)なも 終助詞:《接続》活用語の未然形に付く。〔他に対する願望〕…てほしい。…てもらいたい。 ※上代語。(学研)

 

 十七、十八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その45改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)

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◆古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾念流碁騰 

                   (額田王 巻二 一一二)

 

≪書き下し≫いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我(あ)が思(も)へるごと

 

(訳)古に恋い焦がれて飛び渡るというその鳥はほととぎすなのですね。その鳥はひょっとしたら鳴いたかもしれませんね。私が去(い)にし方(かた)を一途に思いつづけているように。(同上)

(注)けだし【蓋し】副詞:①〔下に疑問の語を伴って〕ひょっとすると。あるいは。②〔下に仮定の表現を伴って〕もしかして。万一。③おおかた。多分。大体。(学研) ※ここでは①の意

 

 

◆三吉野乃 玉松之枝者 波思吉香聞 君之御言乎 持而加欲波久

               (額田王 巻二 一一三)

 

≪書き下し≫み吉野の玉松が枝(え)ははしきかも君が御言(みこと)を持ちて通(かよ)はく

 

(訳)み吉野の玉松の枝はまあ何といとしいこと。あなたのお言葉を持って通ってくるとは。(同上)

(注)はし【愛し】[形]:いとしい。愛すべきである。かわいらし(学研)

(注)通はく:「通ふ」のク語法。

 

 一一二、一一三歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1041)」で紹介している。

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◆加是有乃 懐知勢婆 大御船 泊之登萬里人 標結麻思乎  額田王

               (額田王 巻一 一五一)

 

≪書き下し≫かからむとかねて知りせば大御船(おほみふね)泊(は)てし泊(とま)りに標(しめ)結(ゆ)はましを

 

(訳)こうなるであろうとあらかじめ知っていたなら、大君の御船が泊てた港に標縄(しめなわ)を張りめぐらして、邪魔が入らないようにするのだったのに。(同上)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その242)」で紹介している。

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題詞は、「従山科御陵退散之時額田王作歌一首」<山科(やましな)の御陵(みはか)より退(まか)り散(あら)くる時に、額田王が作る歌一首>である。

(注)山科(やましな)の御陵(みはか):天智天皇陵。京都市山科区

(注)御陵(みはか)より退(まか)り散(あら)くる時:墓陵奉仕が終わって大宮人たちが退散する時に。

 

◆八隅知之 和期大王之 恐也 御陵奉仕流 山科乃 鏡山尓 夜者毛 夜之盡 晝者母 日之盡 哭耳呼 泣乍在而哉 百礒城乃 大宮人者 去別南

                  (額田王 巻二 一五五)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)ご大君(おほきみ)の 畏(かしこ)きや 御陵仕ふる 山科の 鏡(かがみ)の山に 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 昼はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人(おほみやひと)は 行き別れなむ

 

(訳)八方を知ろしめす我が大君の、恐れ多い御陵にお仕え申し上げる、その山科の鏡の山で、夜は夜通し、昼はひねもす、声をあげて哭(な)きつづけてきて、このまま、ももしきの大宮人は散り散りに別れて行かねばならないのであろうか。(同上)

(注)かしこし【畏し】形容詞:①もったいない。恐れ多い。②恐ろしい。恐るべきだ。③高貴だ。身分が高い。貴い。(学研)

(注)よのことごと【夜の悉】分類連語:夜通し。一晩じゅう。(学研)

 

 

◆君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹

              (額田王 巻四 四八八)

≪書き下し≫君待つと我(あ)が恋ひ居(を)れば我(わ)がやどの簾(すだれ)動かし秋の風吹く

 

(訳)あの方のおいでを待って恋い焦がれていると、折しも家の戸口のすだれをさやさやと動かして秋の風が吹く。(同上)

 

題詞は、「額田王思近江天皇作歌一首」<額田王(ぬかたのおほきみ)近江天皇(あふみのすめらみこと)を思(しの)ひて作る歌一首>である。

 

 

◆君待跡(きみまつと) 吾戀居者(わがこひをれば)  我屋戸之 (わがやどの) 簾令動(すだれうごかし) 秋之風吹(あきのかぜふく)

                    (額田王 巻八 一六〇六)

 

 四八八歌と同じである。姉の鏡王女(かがみのおほきみ)の歌(三八九歌)と共に巻八 一六〇六、一六〇七歌として重複収録されている。

 

この歌ならびに鏡王女の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その239改)」で紹介している。

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 額田王については、犬養 孝氏は、その著「万葉の人びと」(新潮文庫)の中で、「・・・額田王という人は、伝記もはっきりわからない謎につつまれた人なんですね。ただ、『日本書記』に一カ所だけ、天武天皇のところに、天武天皇が‘鏡王(かがみのおほきみ)という人の娘の額田王を奥さんにして、十市皇女(とおちのひめみこ)を生んだ’ということが書いてあるだけです。この人に関する記述は、このただ一カ所だけしかないんです。(中略)『萬葉集』を読んでいますと、そこに収録されている十二首の歌で、額田王という方の人柄、輪郭、そういうものが大体見当がつきます。(中略)あの壬申の乱の大動乱期を生き抜いた方で、まさに運命に翻弄されたような方ですね。そして歌はすばらしく巧い、才媛だったと思います。」と書かれている。

 

 今回、この十二首を取り上げてみたが、これまでも多々紹介してきていたが、改めて歌を読み直してみると、以前より歌自体の重みが異なってきておりその重さに押しつぶされそうな感じである。

 万葉集における「標題」「題詞」「左注」のもつ、ある意味歴史的な重みを感じる。万葉集の一つの側面を改めて思い知らされたのである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉