万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1143)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(103)―万葉集 巻二 九〇・左注

●歌は、「君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ」である。

 

f:id:tom101010:20210824112546j:plain

奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(103)万葉歌碑<プレート>(巻二 九〇左注)

●この歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(103)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待  此云山多豆者是今造木者也

                 (軽太郎女 巻二 九〇)

(注)軽太郎女(かるのおおいらつめ):別名は、衣通王(そとほりのおほきみ)

 

≪書き下し≫君が行き日(け)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ  ここに山たづといふは、今の造木をいふ

 

(訳)あの方のお出ましは随分日数が経ったのにまだお帰りにならない。にわとこの神迎えではないが、お迎えに行こう。このままお待ちするにはとても堪えられない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)やまたづの【山たづの】分類枕詞:「やまたづ」は、にわとこの古名。にわとこの枝や葉が向き合っているところから「むかふ」にかかる。(weblio辞書 Wiktionary(日本語版 日本語カテゴリ)

 ※万葉集には、「やまたづ」を詠んだ歌は二首が収録されているが、いずれも「やまたづの迎え」という使われ方になっている。「やまたづ」が、「迎え」の枕詞になっているからである。

(注)みやつこぎ【造木】:① ニワトコの古名。 〔和名抄〕② タマツバキの古名。 〔本草和名〕(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

 

 

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板はなく、歌碑(プレート)に、万葉名「みつながしは」は現代名「タニワタリ」(オオタニワタリ)と書かれている。巻一の二〇歌の「左注」の「みつながしは」である。写真を見れば、歌碑(プレート)の後ろの植物は「オオタニワタリ」であr。

 

この歌ならびに左注についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(番外200513)」で紹介している。なお、奈良市法蓮佐保山 万葉の苑にあるプレートには、現代名は「カクレミノ」と書かれており、「みつながしは」には諸説があるようである。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

f:id:tom101010:20210824113055p:plain

「みつながしは」(オオタニワタリ 吉野熊野国立公園宇久井ビジターセンターHPより引用させていただきました。)

 

f:id:tom101010:20210824113154p:plain

「カクレミノ (植物データベース 熊本大学薬学部 薬草園HPより引用させていただきました。)

 

左注をみてみよう。

 

 左注の原文は、「右一首歌古事記与類聚歌林所説不同歌主亦異焉 因檢日本紀曰 難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月天皇語皇后納八田皇女将為妃 時皇后不聴 爰天皇歌以乞於皇后云ゝ 卅年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀伊國到熊野岬取其處之御綱葉而還 於是天皇伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中 時皇后到難波濟聞天皇合八田皇女大恨之云ゝ 亦曰 遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春三月甲午朔庚子木梨軽皇子為太子 容姿佳麗見者自感 同母妹軽太娘皇女亦艶妙也云ゝ 遂竊通乃悒懐少息廿四年夏六月御羮汁凝以作氷 天皇異之卜其所由 卜者曰 有内乱 盖親ゝ相奸乎云ゝ 仍移太娘皇女於伊豫者 今案二代二時不見此歌也」である。

 

≪左注の書き下し≫右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と説(い)ふ所同じくあらず、歌の主(ぬし)もまた異(こと)なり。よりて日本紀(にほんぎ)に検(ただ)すに、曰はく、『難波の高津の宮に天の下知らしめす大鷦鷯天皇(おほさぎきのすめらみこと)の二十二年の春の正月に、天皇、皇后(おほきさき)に語りて、八田皇女(やたのひめみこ)を納(めしい)れて妃(きさき)とせむとしたまふ。時に、皇后聴(うけゆる)さず。ここに天皇、歌(みうた)よみして皇后に乞ひたまふ云々(しかしか)。三十年の秋の九月乙卯(きのとう)の朔(つきたち)の乙丑(きのとうし)に、皇后紀伊国(きのくに)に遊行(いで)まして熊野(くまの)の岬(みさき)に到りてその処の御綱葉(みつなかしは)を取りて還(まゐかへ)る。ここに天皇、皇后の在(いま)さぬを伺(うかか)ひて八田皇女(やたのひめみこ)を娶 (め)して宮(おほみや)の中(うち)に納(めしい)れたまふ。時に、皇后難波(なには)の済(わたり)に到りて、天皇の八田皇女を合(め)しつと聞きて大きに恨みたまふ云々』といふ。また曰はく、『遠つ飛鳥の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)の二十三年の春の三月甲午(きのえうま)の朔(つきたち)の庚子(かのえね)に、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を太子(ひつぎのみこ)となす。容姿(かほ)佳麗(きらきら)しく見る者(ひと)おのずから感(め)づ。同母妹(いろも)軽太娘皇女(かるのおほいらつめのひめみこ)もまた艶妙(かほよ)し云々。つひに竊(ひそ)かに通(あ)ふ。すなはち悒懐(いきどほり)少しく息(や)む。二十四年の夏の六月に、御羮(みあつもの)の汁凝(こ)りて氷(ひ)となる。天皇異(あや)しびてその所由(よし)を卜(うら)へしめたまふ。卜者(うらへ)の曰(まを)さく、『内の乱(にだれ)有り。けだしくは親々(はらから)相(どち)奸(たは)けたるか云々』とまをす。よりて、太娘皇女を伊与に移す」といふ。今案(かむが)ふるに、二代二時(ふたとき)にこの歌を見ず。

(注)おおさざきのみこと【大鷦鷯天皇】:仁徳天皇の名。

(注)八田皇女(やたのひめみこ):仁徳天皇の異母妹。当時は、母の違う兄弟姉妹の結婚は認められた。

(注)きさき【后・妃】: 天皇の配偶者。皇后。中宮。また、女御などで天皇の母となった人。律令制では特に称号の第一とされた。 → 夫人・嬪(ひん)と続く。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)熊野の岬:和歌山県南方の海岸。熊野は古代人にとっては聖地。

(注)みつながしは 御綱葉:ウコギ科の常緑小高木カクレミノの葉ともいうが、未詳。万葉集では「磐姫皇后、天皇を思ひて作らす歌」(1-85~90)の左注に「皇后、紀伊国に遊行(ゆ)きて、熊野の岬に至り、その処の御綱葉(みつながしは)を取りて還へる」とある。皇后磐姫が紀伊国の出かけたことは、記に「大后(おほきさき)、豊楽(とよのあかり)せむと為(し)て、御綱柏を採りに木国(きのくに)に幸出(いでま)しし間」とあり、紀に、この時期を「秋九月」としている。カシハは、「炊葉」の意であり、食物を盛ったり、覆ったりするのに用いたものであった。例えば、「皇祖の遠き御代御代はい敷折り酒飮むといふそこのほほがしは」(19-4205)のように、葉を折って酒器として用いたホホガシハ(もくれん科)のような例もある。当該のミツナガシハは、その採取の時期が秋であることや、皇后自らこれを採るために紀伊国まで出かけている樣子などを考えると、新嘗祭の神饌を盛る器として用いられるためのものであったと考えられよう。(國學院大學デジタル・ミュージアム「万葉神事語辞典」)

(注)内の乱れ:同居血縁者の不倫。

(注)二代二時にこの歌を見ず:日本書記には、仁徳・允恭両朝のいずれにも八五・九〇のような歌は見当たらない、の意。八五の歌は、磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)の歌で、「君が行き日(け)長くなりぬ山尋(たづ)ね迎へか行かむ待ちにか待たむ」である。

 

 巻二の冒頭歌(八五~八八歌)の歌群の題詞は、「磐姫皇后(いはのひめのおほきみ)、天皇(すめらみこと)を思(しの)ひて作らす歌四首」とある。天皇仁徳天皇のことであるから、万葉集では最古の歌と言うことになる。しかし左注にもあるように、「二代二時にこの歌を見ず」であり、いわば、民謡的なものが、万葉集巻二の編者によって物語的に収録されたと思われる。

 八五~八八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1034~1037)で紹介している。

 ➡ こちら1034

 

 衣通王(そとおりのみこ)は、後世、和歌三神の一として和歌山市玉津島神社にまつられているそうである。

 玉津島神社に関しては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その734、735)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「万葉神事語辞典」 (國學院大學デジタル・ミュージアム

★「 weblio辞書 Wiktionary(日本語版 日本語カテゴリ)」

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」

★「吉野熊野国立公園宇久井ビジターセンターHP」

★「植物データベース」 (熊本大学薬学部 薬草園HP)